2017年10月19日

まっぷたつに壊れた聖母像 ー 適材適所ということを考える


photo-8.JPG

 先日ご紹介した、ちょっと謂れのある、うちの教会の聖母像です。
このルルドの聖母マリア様、実は一度、この高い棚の上から落ちて壊れたことがあるのです。

 前任のM司祭が主任だった頃、ある年の復活徹夜祭の時に事故は起こりました。
 ミサの途中で、すべての御像から紫の覆い布をはずすじゃないですか。引っ張れば、するっと取れるように結んであるはずなんですけど、この御像のだけ何故かするっと行かなくて御像がグラグラしてるのに、侍者長の子がさらにグイッと引っ張ったから、上からドカッと派手に落ちました。
 何人かが思わず立ち上がるほど音も大きかったけど、損傷もひどかった。

 縦割りに大きくヒビが入ったので、勢いで下から上までまっぷたつになりそうでした。
不思議とお顔が無事だったのが救いでしたが、ヒビが広がったら全体が崩れてしまいそうでした。
 が、信徒の一人が上手に治してくださいました。服の部分は塗り直しもしました。

 綺麗なマリア様の御像はなんとか修繕できたから良かったけれども、避けられた事故だったように思われました。

 侍者長は知的障害者でした。
同じ一つのことなら繰り返せば覚えるし、できるようになります。
でも、少しでも違うことが突発的に起これば全く対応できない。
枝の主日の時なども、他の侍者が何度も祭壇と香部屋を行ったり来たりして苦労していました。
いつもと違うことは準備できなかったからです。

 かなり長い期間、この子が毎週日曜のメインのミサで、侍者長をやっていました。大祝日のミサも。
 当然、他の侍者の男の子たちは不満に思っていました。

「まぁまぁ、あの子は知的障害者だから、親切にしてやんなよ」という大人もいましたが、これは「親切」とは違うと思います。

 人はそれぞれ見合った「分際」というものがあり、あまりそれを超えた所に自分を置くこと、置こうとすることは、甘え、あるいは「傲慢」ではないのだろうか、とか、
上の立場の人、まとめる役割の人が、それを是正しないのは、一種の「怠り」であろうか、とか、
聖母像を眺めながら、いろいろなことが頭をよぎりました。


 どんなコミュニティでも、人間関係の揉め事はありますが、特に教会のコミュニティーは「親切」「善意」を建前にするので、甘やかし、あるいは野放し、になりやすいかもしれません。

 あまり知識も経験もない人が教える立場になったり、人望が無い人がしきり役をやったり、実務能力のない人が実行委員長になったり、歌の下手な人が聖歌隊のリードをやったり、計算できない人がバザーの会計になったり。。。
周りが見れば、明らかに「ちゃんとできないでしょ」と思う人でも、本人はできるつもり、上手いつもりだったりします。
(あるある系の話をしているだけで、あなたの教会のことではありませんよ。(^^))
 あの侍者の子のお母さんも、「うちの子は普通になんでもできます」といつも言っていました。


 「適材適所」という事がうまく為されていないコミュニティは内輪揉めが増えるし、やる気をなくす人も出てくるので、決して成長できません。
 これは主に、上に立つ人々、指導する立場の人々の責任と思います。彼らにも好みがあり、実質より感情が先になることもあります。
 これはどうしてわかるかというと、任された役割と、その人を選んだ理由がそぐわないからです。(例えば、侍者長を選ぶのに、理由が、ミサ侍者が上手にできるから、とか、年長で慣れているから、とかではなく、知的障害者だから、というのは理由がそぐわないのです。また、大きなバザーの会計係を選ぶのに、理由が、バザーを纏めた経験があるから、とか、会社で経理をやっているから、ではなく、いつも掃除をしてくれるから、では、そぐわないのです。)
 コミュニティのメンバーは、代替え案を提案したり、上手に役割を熟る人が奉仕を申し出たり、話し合いの場を設けたり、無駄だと思っても努力を続けるのは、でしゃばりではなく本当の善意です。エネルギーがいりますが。


 特に、会計、経理関係は大切です。
 昨日の書簡の朗読で、
「私たちは、福音のために諸教会で譽れを受けている兄弟(聖ルカ)を彼と一緒に送る。その上、主の光栄のために管理され、私たちの志を表すためにしている慈善の分配について、彼は私たちの旅の侶(とも)となるように諸教会から選ばれた人である。これによって、私たちはあずかっている多額の献金について人からの非難をすべて避けたい。なぜなら、私たちは主の御前ばかりでなく、人間の前にも名誉が保たれるように心がけているからである。」(コリント人への第2の手紙8章8〜21)
という部分がありました。

 医者であり、知識人であった聖ルカなら信頼される、という一般への配慮があったのでしょう。
 この手の問題は、使徒の時代でも、いつの時代でも同じですね。
 昭和の頃の中小企業などでは、「経理関係の責任ある立場は、裕福な家庭の人に限ること」などとも言われていました。
 会計、経理関係で、良い人材が配されていないと、監査が行き届かず、大問題になることもあります。

 お金のことはシビアですし、問題が起こったら遺恨が残ります。
これについては、あまりに長くなりそうなので、機会があったら、また書きたいと思います。

 どんなグループでも、たとえ真の神の教会であっても、人間の集まるところには、いろいろ問題は起こります。
でも、熱心な祈りと共に、忍耐と善意を持って、他の方々の善意にも信頼して、日々努力を続けたいと思います。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
カトリックブログランキング- よろしければ、めでたしひとつと クリックひとつ お願いします。

posted by テレジア at 14:27| Comment(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
タグクラウド