2017年06月01日

お薦めの良書「ジャンヌ・ダルク」


ジャンヌ・ダルク (中公文庫) -
ジャンヌ・ダルク (中公文庫) - 文庫 – 1987/3/10
ジュール ミシュレ (著), 森井 真 (翻訳), 田代 葆 (翻訳)




名高きフランスの聖女、ジャンヌ・ダルクの伝記です。著名な歴史家の作なので信頼して読めます。

本の構成は、本文140ページ程、その後に独特で興味深い作者「原注」が50ページ弱続き、さらに「訳注」が60ページ。

その中には、聖ジャンヌ・ダルクがイギリス王とその配下に宛てて「天の王なる神の御名において」書いた手紙の全文なども載っています。

最後に、関連年表と 訳者あとがき があります。

本文だけでなく、その他の注釈部分なども、残らず目を通す事をお勧めします。

ジュール ミシュレ は、大著「フランス史」「フランス革命史」などの歴史書の著者。
「ジャンヌ・ダルク」は、「フランス史」の中で、彼女について書かれた一章です。



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Saint_Joan_of_Arc.jpg





5月30日は、聖ジャンヌダルクの祝日でしたね。聖女の伝記を、読み返していました。

同日付の、カトリック系フェイスブックで見かけた略伝が、とてもよくまとまっているので、最後に転載しておきます。

聖ジャンヌ・ダルクについて、もっと詳しく知りたい方は、上記の本をどうぞ。

この本は、短いですが素晴らしい。
普通の生活をしていた頃のつつましい様子、勇ましくも心優しい戦いの時の姿、鎖に繋がれた牢の中で苦しさ、異端裁判での聖なる受け応えなど、聖女ジャンヌ・ダルクの姿が、生き生きと思い描けます。当時の状況の理解の助けにもなります。

聖ジャンヌ・ダルクが、ただの男勝りで、武術に長け、イギリス軍をやっつけた、などというレベルの話ではなく、まさに、神の「偉大な奇跡」が、一人の聖女を通して行われた、ということが、よくわかります。


もう一つ良く分かることは、間違った「異端裁判」が起こりうる、ということです。
世俗の権力者たちのさまざまな利害が絡み、すべての状況が聖女に不利な中、残念ながら当該の司教までもが自身の安泰のために、「聖女」を「魔女」であるとする判決を引き出そうと力を尽くします。
聖なる権威を持つはずの教会裁判を自身の利益のために利用する とは、死後の罰が恐ろしいとは考えなかったのでしょうか。
また、毅然と反対すべきだった他の聖職者や神学者、修道者たちが、脅しに屈するのか、金に負けるのか、ごく少数を除いて、ずるずると同意したり、曖昧な発言で保身を優先してしまいます。

シャルル七世の戴冠とフランス国家の復興が自分らの利権に反する人々は、別の王を立てるために、聖ジャンヌ・ダルクに「自分が天啓を受け、シャルル七世を戴冠させたことは間違いで、悪魔からのものだった」と言わせたかったのです。
しかし、聖女は最後まで天啓に忠実に留まりました。(ただ一度だけ挫けましたが、すぐに戻りました。)

異端審問官は、教会の聖なる権威への「従順」を楯に、天啓に背くように強要します。その際の聖女ジャンヌのやり取りを引用します。

「それでは、お前は地上にある教会に、我らの聖なる父である教皇に、枢機卿、大司教、司教及び高位聖職者に服従すべきであるとは思わないのか。」
「はい、おそらく、<まず我らの主に仕えさえすれば>」

「お前の(聞く、内なる)声は、お前を戦闘の教会に従属させることを禁止するのか。」
「声はそのことを禁じてはおりません、<まず第一に我等の主に仕えさえすれば。>」

太字がジャンヌの言葉(第4章 裁判 ジャンヌ、教会に従うことを拒絶 より)



 この聖ジャンヌの言葉は、初代教会で宣教をしていた使徒たちが、ユダヤ人に迫害された時の言葉「私たちは人間よりも神に従わねばなりません。」(使徒行録 5:29)に似ています。権威を持つものが間違っている時に、天に背いて迎合することはできないのです。

 1431年、貼札に「異端者、戻り異端、棄教者、偶像崇拝者。。。」と書かれ、火刑にされた処女(おとめ)ジャンヌは、その25年後の1456年に名誉回復を宣言され、1920年に列聖され聖女とされました。
 

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聖ジャンヌ・ダルクおとめ殉教者       記念日 5月30日
 1329年、フランス王チャールズ4世の逝去によりカペー王朝が断絶し、そのいとこにあたるヴァロア家のフィリプがあとを継いだ。ところが、英王エドワード3世はチャールズ4世のおいにあたるという理由からフランス王位相続権を主張して一歩もゆずらなかった。ここで両国は戦端を開き、フランス国内で「百年戦争」という悲惨な攻防戦をくりひろげた。
 その後、国内でも王族間の内紛が起こり、ブルゴーニュ党とアルマニャック党に分かれ、前者は英軍と共同し、後者はあくまでフランスの正統王朝、ヴァロア家のシャルル6世の太子を守って優勢な英軍に抵抗した。この必死の抵抗もむなしく、1428年、仏軍の最後の堅固な城オルレアンが包囲され、ヴァロア王朝の運命は風前のともしびとなった。このとき天来の救い主のように現れたのが、純粋なおとめジャンヌ・ダルクである。聖女は祖国愛に燃えながら自ら陣頭に立ち、オルレアン城を解放してシャルル7世の戴冠式を挙行した。
 彼女は1412年、フランス北東部ドム・レミの寒村に生まれた。草深い田舎の、しかも貧しい農家の娘のこととて学校には行けなかったが、敬虔な両親に見習い、厚い信仰を身につけて、毎日家事の手伝いや羊の番をしていた。この少女もたびたび祖国の危機を聞いて、小さい心を痛めながらフランスを救ってくださいと神に祈っていた。
 1424年、彼女が12歳の時、御ミサが終わって聖堂を出ようとしたとたん、天からの声を聞いた。「ジャンヌ・ダルクよ敵の手からフランスを救え」と。彼女は驚いて「わたくしにどうしてそんなことができますか」と問うと、「天にまします御父が、おまえを助けられるであろう」と答えた。それは大天使聖ミカエルの声だった。そのうえ聖女マルガリタと聖女カタリナもしばしば現れ、ジャンヌを「神の娘」と呼んで勇気をつけた。
 ジャンヌはあまりの不思議に4年の間悩み、貞潔の願を立てて、よく祈り、たびたび御聖体を受けた。16歳の時、ついに彼女は「御旨のままに・・・」と神に誓い、城主のボードリクールに「フランス王を救いに行きますから、私に兵士を伴わせてください」と願い出た。
 はじめはまわりから相手にされなかったが、ジャンヌはこれにひるまず熱心に運動を続けて、ついに村民や城主を説得した。こうしてジャンヌは騎兵の男装で白馬にまたがり、数人の兵士を伴い、シノンにいる皇太子のもとへ向かった。整列した兵士たちの中に変装してかくれていた皇太子を一目で見分け、これに天から告げられた自分の使命を語った。
 皇太子も以前からうわさの流れていた預言、すなわちフランスは純潔なおとめによって救われるということを聞いていたし、いままたジャンヌの誠意ある話に心を動かされたが、念のため数人の大学教授にジャンヌの審査を依頼した。「あなたは天から使命を受けたというが、全能の神に兵士はいらないのではないか」と問われて、ジャンヌは「勝利は神の与え給うものですけれど、戦いは兵士のなすべきことです」と答えたという。1ヶ月の厳密な調査の結果、ジャンヌの使命が認められ、1429年ジャンヌは白い鎧,かぶとを身につけて右手に剣を、左手にイエズスとマリアの御名を記した白絹の軍旗をもって、さっそうと馬にまたがり、槍の精鋭小隊を率いてオルレアンに進撃した。
 途中で将兵に告解と御聖体の秘蹟を受けさせてから、敵中目がけて突撃を開始し、破竹の勢いで次々に敵(英軍)の包囲を突破して数日のうちにオルレアン城を解放した。この奇跡的な勝利にフランス全土の士気は大いにあがり、国民はこぞって神に感謝し、領土回復の希望に燃えたった。ジャンヌはこの喜びをゆっくりかみしめるひまもなく、同年7月幾多の困難を経て皇太子をランスに導き、これをシャルル7世として正式にフランスの王位に即位させたのである。
 これでジャンヌの使命は終わったが、人々に請われるままに軍中に留まり、翌年、首都パリを奪回しようとしていたところを、ブルゴーニュ軍に捕らえられ、英軍に売り渡されたのちルーアンに護送され、英軍の買収した裁判官により宗教裁判にかけられた。この裁判には、最初からシャルル7世の戴冠式を魔女の手になるものとして、これを無効にしようとする政治的意図が強かった。4ヶ月にわたる暴力裁判のすえ、結局なんらの確証もなく、ジャンヌを異端者、魔法使いときめつけ、彼女に火刑を宣言した。ジャンヌは身に長い喪服をまとい、胸に唯一の希望である十字架をかけ、すべてを神のみこころにゆだねつつ、19歳とは思えぬ落ち着いた態度で刑場に向かった。群衆はジャンヌの神々しい姿を見て涙ぐんだ。やがて高く積まれた刑場のまきに火がつけられ、燃えさかる炎の中にジャンヌは「イエズス・マリア」の御名を呼びつつ息絶えた。
 その25年後の1456年に教皇カリスト3世は、この宗教裁判のやり直しを命じ、無罪の判決をもってジャンヌの名誉を回復し、のち、1920年、教皇ベネディクト15世はジャンヌを聖女の列に加えた。





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2017年01月04日

「人間の分際 – 神父・岩下壮一」(良書のご紹介)



人間の分際―神父・岩下壮一 (聖母文庫) -
人間の分際―神父・岩下壮一 (聖母文庫) -




「人間の分際 – 神父・岩下壮一」
小坂井澄 著/ 聖母の騎士社発行



 先日、ご紹介した「カトリックの信仰」の著者、フランシスコ・ザビエル 岩下壮一神父様(1889年9月18日〜1940年12月3日)の伝記です。

http://akitadiary.seesaa.net/article/444283010.html

 当時の時代背景もよく分かりますし、ご両親の話、幼児期、少年期の話も様々な人間関係が面白いです。岩下神父様を中心に信仰が広がっていく様子もよくわかります。まず家族に、そして友人に、そして多くの人々に。


岩下 壮一.jpg
岩下壮一神父様



 岩下神父様は、東京のカトリック系ミッションスクール暁星学園時代に洗礼を受け、一高、東京帝大哲学を経て、ヨーロッパで神学を学んで司祭となり、帰国して日本でのカトリック信仰の宣教に努めました。

 帰国後は、特にカトリックの知的代表ともいうべき立場で、「啓蒙書から専門学術書まで」執筆著作活動を精力的に展開され、学生のための講義、知識人のための講座、カトリック研究社を設立しての出版事業などめざましく活躍されました。

 当時、岩下・戸塚時代と言われ、カトリック教会全般に、とても活気がありました。

 「カトリックの信仰」は公教要理の第一部の解説書なのですが、その第三部の解説を書かれた、当時のカトリック界のもう一人の逸材が戸塚文卿神父様です。

 戸塚神父様は、岩下神父様の暁星、一高、東京帝大(哲学ではなく医科)の後輩で、ヨーロッパに渡ったのは2年後でしたが、1年ほど先に叙階を受け、司祭となって帰国し活躍を始めました。



戸塚神父様.jpg
若き日の戸塚文卿医師(まだ司祭になる前)




 その部分を少し引用してみます。

。。。。。

 壮一よりもほぼ9ヶ月前に帰国した戸塚文卿は、壮一の大森山王にほど遠からぬ南品川の父の外科医院を「聖ヨハネ汎愛病院」と改め、司祭かつ医師としていわば二足のわらじの活動を始めている。
 戸塚はパリではパストゥール研究所でも研鑽を積んだ当代第一級の医師、医学者だが、それにしてもこちらも壮一に劣らぬ異色司祭の出現といわなければならない。
 「聖ヨハネ汎愛病院」は、たんなる病院ではなかった。毎朝のミサにはじまり、定時の祈りによって区切られた日課と生活規則を持つ修道院に準じた奉仕者の共同体であった。
 医療活動としても、貧窮患者に対する無料診療を目的の一つとした。
(中略)

 壮一が洗礼の代父をつとめ、暁星以来の先輩として少なからず影響をおよぼしてきた戸塚が、壮一の目にもあれよあれよといううちに一歩先んじて司祭となり、ヴァイオレットらを伴って帰国、医師の腕を活かして新しい活動を展開する鮮やかさ、それ自体が感嘆の対象であった。
 壮一がどこまで自覚的に対抗意識を持っていたか。いずれにせよ、第三者からすればよきライバルと目され、事実、そういう関係で両者の活動は進んでいく。それが活気ある「岩下戸塚時代」を生むことになるのだ。

 日本におけるオラトリオ会の創設を視野のうちにおさめていた岩下は「宣教師」であることをふくめて、日本の規制の教会組織 ー 教区にせよ修道会にせよーに束縛されぬ自由を明らかに意図していた。

 いっぽう戸塚の医療を柱とした宗教活動は、すでに日本でも一部女子修道会によって着手されてはいるが、さらに社会的要求もあり、東京大司教レイは大きな期待を寄せた。戸塚もまた、これを東京大司教の管轄下に当然のこととして置き、大正14年5月の病院開設に当たっては、大司教の公式祝福を受けたのである。

。。。。。。352ページより引用




 第7章「それぞれの道」の、岩下神父様と戸塚神父様の友情、交流の様子は、特に興味深いです。

 司祭への望みを心に秘めて渡欧した四人の日本の若者の青春群像ともいえる章で、個々に違う召命の感じ方、答え方など、とても心に響くものがありました。
 四人とも才能豊かな若者で、二人は司祭になりましたが、司祭にならなかった一人は、有名なカトリック画家の長谷川路可様です。


 望めばいくらでも世間的な栄達の道を行けたのに、それを打ち捨ててカトリック司祭になられた方々は、覚悟が違うと感じました。だからこそ、宣教の力になるのだろうと思います。


 岩下神父様が、神山復生病院の院長になられると、皆、驚いてしまうのですが、ずば抜けて頭脳明晰な方なのに、信仰において頭でっかちにならず最弱者への慈善事業に尽くす姿にも打たれます。
 癩者の現実を見てショックを受ける学生に、「涙を流したって何の役にも立たないよ。それよりここで洗濯でも手伝うんだね。」とか、あまりに現実的で、ちょっと笑ってしまいます。
 
 
 岩下神父様は、「司祭になろうよ」とはほとんど言わず「最高のことを目指そう」と言われていたそうです。一人一人にとっては、それは結局、天主様が自分に望む道のことではないかと思いました。それが「分際」ということ。天主様が定められた自分の分際を理解し、望み、果たすことこそ最高の道なのでしょうと思います。
 
 私たちも皆、それぞれの道で、
「御言葉の通り、この身になりますように」(ルカ1・38)
と、お答えになった聖母マリアに倣えますように。

 召命を考えている方、自分の道を探している方に、特にお勧めの良書です。




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2016年11月24日

岩下壮一神父様の著書「カトリックの信仰」







 岩下壮一神父様の著書、「カトリックの信仰」は、

カトリック教会の教えを問答形式で要約した「公教要理」全3部のうち、

第一部(信ずべき事柄)の 岩下壮一神父様による解説の講義録をまとめたものです。


 また、あまり知られていませんが、

 第2部(守るべき事柄すなわち戒律)の解説は、野田時助司教様によって、

 第3部(恩寵を授かる道としての秘蹟サクラメント)の解説は、戸塚文卿神父様によって、

 全部、同じ講義録の形で、当時(昭和5年〜)、岩下神父様の経営していたカトリック研究社から出されたそうです。



 多くの要望があり、岩下神父様の「カトリックの信仰」が、何度か再出版されたのは素晴らしいことですが、できれば他の2巻を含めた「全3巻」、カトリックの信仰全般を総括したものとして再出版されてほしいと願ってやみません。

 信仰をよりよく理解できるように、重要な教義と信仰生活の実践について信徒のために詳しく説明された こういった本当に価値のある本が、もっと世に知られることが、日本での正しいカトリック信仰の復興、教会の発展に繋がると思われるからです。

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 私が持っているのは、講談社学術文庫から1994年に出版されたものですが、文庫本なのに厚さが4cmくらいあります。
 お手軽に一気に読むという本ではなく、毎日少しずつ読む、あるいは疑問が起きた時に関連箇所を調べる、といった具合に、カトリック者の座右の書として頼りになる本だと思います。

 (本書内の「公教要理」の本文は、大正14年改訂版のものですが、あまり古さは気にならず、普通に読めます。)


 岩下神父様の知性の高さは、カトリック聖職者だけでなく日本人全体から見ても群を抜いており、東京帝国大学文学部哲学科をフランス語の卒論で最高点を受けて1912年に卒業した5年後には、文部大臣から辞令を受け、文部省在外研究留学生(私費)として6年間ヨーロッパで学ばれました。

 西欧にて学んだ深い学術的理解と、自身の信仰の確信を持って、日本人の良識と心理を理解する日本人である岩下神父様が、日本人のために説かれているのが本書の特徴であると思います。
 西欧の偉大な哲学者の書や宗教書はたくさんありますが、ただの翻訳ものとは違う、それらを超えた素晴らしさがあります。


 ふと思い出したのですが、尻枝神父様のお姉さまは、この本を発見し一気に読んで「これが真理だ!」とカトリックの洗礼を受けた、といった話を読んだことがあります。その後二人の弟さまも洗礼を受け2人ともカトリックの司祭になられました。3賢人姉弟と言われる尻枝神父様兄弟とシスター尻枝の話です。

 私のような凡人には、とても一気には読みきれませんが、このような方もいらっしゃるのだなあと、思わず感心してしまった次第です。

 何れにしても、すべてのカトリック者に必読とも言うべき、特にお薦めの良書です。


 ご参考のために序文を引用しておきます。長文読める方はどうぞ。

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「カトリックの信仰」の原本編者序より部分引用 


 公教要理は、神の知恵への人知の参与であり、いわば真理の永遠不朽の貯水池とも言えるもので、現在世界の混乱も、この真理の源泉を汲むことによって、解決の曙光ははじめてさしかかってくると言えるであろう。特に岩下師のこの解説は、左のような特徴を備えていると言えよう。

 一つは、比類稀な知性を持ち、我が国でも、最も優れた哲学者の一人なる師が、日本の知識階級の教養や心理を十分に心にたたんだ上で、これを相手として説かれた点であり、いかに優秀な欧米の公教要理解説書にも到底のぞめない特徴が、ここにあるのである。ことにややともすれば中世に立てこもり、近代をいたずらに白眼視しがちな神学者の中にあって、師は早くより近代哲学の研究に力を注ぎ、文芸復興や啓蒙思想の洗礼をうけて育った近代人に深い同情をもちつつ、これとの対決をはかられた点で、師こそ、近代哲学にのみ立てこもらんとする日本の思想界に、カトリック真理を開示しうるほとんど唯一の橋渡しなのである。
「カトリックの信仰の根拠は、常にそれが真理なるが故に、という一点に存する。彼には決してそれが単に、人間の心情的要求を満足せしむるが故に、とは言わない。それが吾人の宗教的要求を満足せしむるは、真理なるが故である」(『信仰の遺産』68頁)。

 本書の特徴の二は、その大部分が学生相手の講義の草稿や筆記から成り立っている点に求められよう。そこには生ける師と道を求める青年との、直接の接触の体温が感ぜられる。岩下師の学問は深い信仰に根ざすと共に、愛にまで発展せずんばやまぬものであった。この愛は各方面に発露された。復生病院の患者への愛、ついにはその命までも捧げた日本への愛、ことに本書の成り立ちと直接の関係のある学生への愛。諸大学高専でのカトリック研究会、この公教要理解説をはじめ、自宅を「カトリック研究社」としての出版活動、聖フィリッポ寮の建設と経営など、いずれも求道学生への愛の導きにほかならず、この愛の活動は師に一番つらい犠牲、つまり研究の暇さえそのためになくしてしまうほどであった。
 しかし幸いにして本書の成りし頃は、師の帰朝早々でまだいくらか読書の暇を有たれた頃であり、この解説には師のそれまでの読書研学の全重量が、ある程度までのしかかっているのである。この知と行との結び付きがまた、本書に独特の魅力を与えているから、いま再販に当っても、なるべく原形をそのままに残し、ただ句読点などの工夫で、幾分よみ易くするぐらいにとどめた。

 本書の第三の特徴は、これが師の人柄を最も躍如とさせていることである。本当に師こそ現代日本で最も知って倣うべき価値ある人物である。ルソーの言うように「自然に還れ」ということではなくて、日本の再出発は、むしろ「超自然に還る」ことからはじめられなければならない秋(とき)にあたって、超自然というカトリック独特の世界がいかに自然をそのままで完成し昂揚(こうよう)するかの生きた実例が、師においてみられるのである。
足跡は世界にあまねく、その視野はいつも世界大、しかも天と地とを合わせた立体的世界大にひろげられ、しかもキリストの愛の命ずるところ、自ら司祭となってまずキリストに倣い、また大学教授以上の知力を以って父君の遺志をついで小学校(裾野の温情舎小学校)をも経営し、復生病院の院長として不幸な患者たちから「オヤジ」と慕われ、その関係から癩者の使徒ダミアン師の遺跡をたずねて単身モロカイ島に赴き、さらに事変の勃発するや当局の懇請黙しがたく華北の教会事情視察の壮途につかれ、ついにその帰途病を得て、再び立つ能わざるに至ったのである。蒲柳の質、ことに片足を幼時より小児麻痺で不自由にされた身で、実に寧日なき献身的な活動は、その動機を超自然的愛から汲んでこられたのである。

 父母に対する孝行 ー 師の母堂は八十余歳の老齢で、生前師の経営にかかる不二農園で数年前なくなられた。母堂に対する師の孝養は格言的にまでなっていた。また父君清周氏に対する師の孝心は、父君葬儀の際の師の会葬者への挨拶に明らかである。この挨拶の中で師は、「父に罪があったとすれば、自分はカトリック司祭として祈りと善業とを以て、その償いをするつもりである」という意味の孝心をのべておられる。

 祖先にかわっての贖罪は、つまりキリストの贖罪に倣ったものであり、師の孝心も、かくキリスト教的に深化昂揚されていた ー 友人に対する親切、後進学徒の指導、世にすてられたものの慰め、日本に対する愛など、これらの自然的徳がそのまま超自然によって、どんなに完成されていくかが師においてよく示され、そこに全き日本人なるが故に、また日本人ばなれのした雄大さが、師の一挙一動にすら感ぜられた所以がある。人間は十分に人間的たるためには、少し人間以上のものとならなければならない。日本に欠けていたのは、この十二分なヒューマニズムであり、師こそ、この先駆者の一人である。この意味の師のヒューマニズムが、本書に一番躍如として脈打っているところに、本書の第三の特徴がある。

 カトリシズムをして日本の思想界に市民権を得させること ー これが師の文章、講演的活動の目的であった。この市民権を得させることは、カトリシズムのためではなく ー 日本そのもののために必要なのである。本書によって、再建日本にこの師の生前の目標が達せられんことを。
1949年7月   小林珍雄

「カトリックの信仰」講談社(株)発行  原本編者序4~7ページより引用 



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2016年11月10日

御宅の本棚にお宝が眠っていませんか?

日本の奇跡聖母像.jpg




 このブログのサイドバーに載せている安田神父様の本、

「日本の奇跡  聖母マリア像の涙」ですが、
在庫が少なくなってきたためか、この記事を掲載した時点で、
アマゾンの最低価格で 7619円(送料別)になっております。

 先週までは、5000円以下(4998円と4999円)で2冊あったのですが、売れてしまったようです。


 発行元のエンデルレ書店さんが閉鎖してしまい、本来の定価は2200円(初版発行時/税別)だったのですが、希少品となりプレミアムがついております。

 現在はネットでは新品は買えず中古品のみです。



「良書の価値」という以前の記事でも書いたのですが、安田神父様の本は他の古いものでもプレミアムのついた高値になっているものがあります。

 例えば「ここに幸あり」(安田貞治著1963年)は、今日現在、アマゾンの最低価格で 8000円(送料別)です。発売当時は1000円もしなかったかもしれません。

 この本は、笹川姉妹が安田神父様に出会う前、妙高教会のカテキスタ時代に大勢の方に配ったものです。


 こういった本は、ネット上では、これほどの高値で出品されていますが、御宅の本棚に昔読んだまま忘れられて置いてあるかもしれません。
 もしかしたら、おばあちゃんの遺品の中に、一冊あるかもしれません。
 教会のバザーの百均に紛れ込んでいるかもしれません。

 できるだけ多くの人々に読んでほしい尊い本なので、手元に余分がある方や、もう読み終えてしまった方は、友人に差し上げるとか、アマゾンに出品するとかなさって、広めていただきたいと思います。

 アマゾンにも在庫が多くなれば、もう少しお手頃な値段になるのではないかと思います。


 カトリックの書籍で、廃版以後プレミアムがついて値が上がるというのは、めったにないことでしょう。

 安田神父様の良書の価値が認められているようで嬉しいことではありますが、あまり値段が高くなるのも手が届きにくくなるので、痛し痒し、というところでしょうか?

 定価か、それより少し上くらいで多くの出品があることを期待します。


 以下は「日本の奇跡  聖母マリア像の涙」のレビュー予定の草稿です。

。。。。。

 1973~82年に起こった「秋田の聖母出現」という一連の奇跡的現象に、一貫して関わったカトリック司祭による詳細な記録と考察の書。

 聖母像からの流血や落涙の現象は、単に人心を騒がせるためだったのではなく、それが起こるにふさわしい目的があったということがよくわかる。神からの奇跡は、神が示そうとされる崇高な意義があり、この場合はその内容が、第4のメッセージともいえる天使の言葉によって明らかにされている。

 将来、教会権威によって確認されるであろう聖母マリアに関するドグマ(教義)について、一般の信徒たちにも その内容がよく理解できるように、涙を流す聖母像というビジュアルなイメージと極みなく美しい声によるメッセージによって示された。

 メッセージには、ポルトガルのファチマの聖母出現のものと似ていると言われる深刻な予言的内容も含まれている。



 一連の出来事は、当時発足したばかりの「聖体奉仕会」という、無名で極貧のカトリック修道女会で起こっており、その生活の様子も興味深く、清貧、謙遜を旨とするカトリックの精神について、改めて考えさせられる。

 メッセージを受けた姉妹笹川は、16年寝たきりであった状態から回復して入会しており、この出来事以前も以後も苦難の多い半生でありながら、明るさと神への信頼を失わない様子に感銘を受ける。

 すべてのキリスト者に、そしてキリスト教を少し異なる視点から理解したい人々にも一読をお勧めしたい本。

 なお、秋田の聖母出現地は、1997年にバチカンの国務長官副秘書が訪問、それに続いて歴代バチカン駐日大使らが訪問、また2013年には教皇フランシスコによって世界的イベントの10大聖地の一つとして選ばれたことから、現在は事実上バチカン公認とみなされている。




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2015年11月01日

十字架の聖ヨハネについて分かりやすく纏められた本


 アビラの聖テレジア様が好きで、十字架の聖ヨハネ様のこともちょっと知りたいな、という方に、ちょうどよさそうな本をご紹介します。


十字架の聖ヨハネ.jpg


「愛への道」十字架の聖ヨハネの生涯と教え
カルメル修道会編
聖母文庫 聖母の騎士者発行
愛への道―十字架の聖ヨハネの生涯と教え (聖母文庫) -


 この本は、前半は 聖ヨハネの簡単な伝記、後半は 彼のいくつかの名著の抜粋から成っています。

 私は、聖ヨハネの伝記を読んだことが無かったので、前半の略伝にとても感銘を受けました。

 十字架の聖ヨハネというと、やはり「カルメル山登攀」「霊の賛歌」などの霊的な著書が、よく知られていますが、後半は、それらの中から、特に心に響く部分が、多くの短い文でまとめてあります。

 サッと読めるのでオススメです。


 。。。。。。。。


 十字架の聖ヨハネとアビラの聖テレジアは、共に14世紀に、カルメル修道会を「原始会則」に戻すために働かれました。

 この「原始会則」とは、何時どのように、できたのでしょうか。

 旧約の預言者エリアの時代から、パレスチナのカルメル山には、エリアの霊的子孫であり、弟子である隠遁者たちが、ずっと住んでいました。

 これらの隠遁生活を送っていた人々に願われて、1209年、当時のエルサレム地方の総大司教であった聖アルベルトは、隠遁者たちの生活規範を「カルメル会会則」として初めて成文化したのでした。
 これが「原始会則」と呼ばれるもので、カルメル山の隠遁者たちの生活を反映した大変厳しいものだったので「厳律会則」とも呼ばれたそうです。

 この聖アルベルトの「原始会則」による生活規範は、14世紀にはかなり緩和されてしまっていました。

 例えば、聖テレジアが(跣足カルメル会創立以前に)住んでいたアビラの履足カルメル修道院は、広くて快適なところで、家族や友人もしばしば訪問し、100人以上の修道女が仲良しクラブのような共同生活をしていたようです。もちろん修道女たちは良い女性たちであり、神のはしためだったのですが。

 聖テレジアは、ただ神への愛にのみ生きる、という奉献生活を志し、沈黙と隠遁を守る生活、つまりカルメルの本来の規則をより完全に守る生活を目指したのです。

 聖主のみ旨は、男子カルメル会も、共に原始会則に立ち返り、熱心と祈りの精神を取り戻すことでした。

 アビラの聖テレジアと出会った頃、十字架の聖ヨハネは、すでにほぼカルメルの原始会則に沿った生活をしていました。
 理想を共にする聖テレジアに強く勧められて、聖ヨハネは 最初の男子跣足カルメル会をドゥルエロというところに創立しました。

 聖ヨハネの生涯も、聖テレジアと同様に、創立のために旅に次ぐ旅というものでしたし、反対や苦難も多くありました。でも、聖テレジアよりもさらに大きな過酷な「迫害」を受けたと思います。

 履足カルメル修道士たちは、跣足カルメル会の創立に反対し、聖ヨハネを極秘のうちに捕え幽閉したのです。彼らの修道院内の牢獄は、狭くて暗い場所で、窓は無く、壁の高いところに小さな穴があるだけでした。その幽閉状態は最悪で、8ヶ月半の間、一度も着替えもできず、食物もごく少量でしたので、聖ヨハネは非常に衰弱してしまいました。
 あまりの状況に同情した看守が助けてくれ、なんとか脱出できたのです。

 この監禁の後、少し回復すると、聖ヨハネは、また創立のための働きを続け、最後まで苦しみの多い生涯でした。聖母によって知らされた通り、「聖母の土曜日」に亡くなりました。

 アビラの聖テレジアは、十字架の聖ヨハネについて、このように言っています。

「彼は、非常に聖なる方です。私は、カスティーリャ地方全体、どこにも彼のような方を、他に見つけることはできませんでしたし、天国への旅に、あのような熱をもって、霊魂たちを鼓舞激励なさる方を、他には、どなたも見つけることができません。」

 
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2015年10月21日

アビラの聖テレジアのことがよく分かる本のご紹介

10月は、私の好きな聖人の祝日が目白押しです。

その中でも特別な意味で敬愛する アビラの聖テレジア(1515年-1582年 祝日:10月15日)の本をご紹介します。


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アビラの聖女テレサの旅(続・アビラの聖女テレサとの対話)
聖母文庫 聖母の騎士社発行
高橋テレサ [訳]
鈴木宣明 [監修]


アビラの聖女テレサの旅―続・アビラの聖女テレサとの対話 (聖母文庫) -


 読んでみて、聖テレジアの人となりが、よく分かる本だと思いました。

 アビラの聖テレジアというと、深い祈りの内に脱魂して恍惚と主イエズスを仰ぎ見ている聖女、天から多くの啓示を受けた偉大な神秘家、そのような神秘体験を書き表し後世に遺した教会博士、という霊的なイメージが強いのですが、そればかりでなく、その活動ぶりもすごいものがあります。それが、この本の中で、聖テレジアのことを「マリア、そしてマルタ」と言われている所以です。
 (ベタニアの聖マリア・マグダレナは霊的な人、その姉妹聖マルタは活動の人、とカトリックでは伝統的に言われております。)


 聖テレジアの代表作、「完徳の道」「霊魂の城」など、霊的な内容に重きを置いた本を読んだだけでは、その霊的な深さは分かっても、実生活や活動面については、ほとんど分かりません。

 この本は、上記の著作の他、「創立史」「自叙伝」また他のいろいろな資料からの抜粋を分かりやすくまとめたものです。
 聖テレジアが多くの人々の援助を受けて、原始会則に従った厳しい生活を送る「跣足カルメル会」修道院を創立していく諸処の手続きや過程をいかにこなしていったか、がよく描かれており、その大きな苦労や喜びも伝わってきます。

 聖テレジアは修室に珍と座って、うっとりとイエズス様を眺めて、楽で幸せな修道生活をしていたわけではありません。

 最初の跣足カルメル修道院を創立するにも、さまざまな試練、嵐のような反対、多くの苦難を乗り越えなければなりませんでした。
 そして、創立5年後、カルメル会の総長ルベオ師がその修道院を訪問すると、聖テレジアとシスターたちの修道生活に深く感動し、もっと多くの跣足カルメル修道院を始めることを許可し、励まされたのです。

 その後の聖テレジアの生活は、旅また旅、幌馬車にゆられて、暑さ、寒さ、雨などの悪天候、ぬかるみ、援助者の不手際による食物の不足や、到着地での宿泊場所の不備など、ありとあらゆる過酷な状況を耐えて、スペイン全土に主イエズス・キリストが讃美される修道院を創立するために、駆け巡った人生でした。

 素晴らしいのは、このような旅の間も、幌馬車に揺られて聖務日課を唱え、宿泊所でも部屋が無ければ布を吊るして仕切を作って禁域を守り、できるかぎり修道生活を会則に忠実に遂行していたことです。活動のために霊的生活を疎かにするようなことはありませんでした。

 多くの聖職者の協力と賛同者の援助を得て、聖テレジアの存命中にスペイン全土に17の修道院が創立されました。そのうち1つは失敗に終わりましたが、それさえも「神がそれをお許しになったから」と淡々と受けとめる謙虚さがありました。

 主の御旨のみを求めた聖テレジアは、人々が心配しようが、同情しようが、困難な創立は避けるように忠告しようが、「それでは神をお愛しできないでしょう」と微笑んで繰り返したそうです。

 多くの修道院創立の後、聖テレジアは、最後に遠地のブルゴスでの修道院創立を依頼されました。すでに高齢であった聖テレジアは、あまりに遠方であることと、冬の厳しさを思って、代理を送ろうと考えました。
 が、主イエズス御自身が「寒さを心配してはならない。私こそ真の熱である。悪魔はこの創立を妨げようと全力を尽くしているから、あなたはその実現を目指して、私の名においてふるいたちなさい。そしてあなた自身行くように。そうすることはひじょうにためになるだろう。」とのお言葉を送られました。
 聖テレジアは、主の御旨を果たすために、ブルゴスへ向けて、生涯最後の旅に出たのでした。そして、17番目の聖ヨゼフ聖アンナ修道院は、無事に創立されました。

 帰途に着いた聖テレジアは、途中、パレンシア、バリドリャド、メディナを過ぎたあと、疲労困憊のためもはやすすめなくなり、アビラではなく、アルバに泊まり、その地で2週間後に亡くなりました。

 最後まで続いた旅、そして最後まで書き続けた創立史でした。

 
グレコ/羊飼いの礼拝.jpgエルグレコ 羊飼いの礼拝




 当時のスペインの各都市の様子や歴史的背景などが、所々に織り込まれ、同時代の有名な画家エル・グレコに霊的助言をした可能性や、聖テレジアの聖徳を信奉する素朴な農民の願いに応えてシスターたちと祈ったらすぐに雨が降った、などの美しい逸話なども含めてあり、飽きずに読めます。

 巻末に、聖テレジアが国王フェリペ2世に書いた3通の手紙も載せられています。
 何度も出てくる時代背景はめんどくさければ、スルーしても良いし、詳しく知りたい方は地図を片手に読めば、17の修道院の場所と相互の距離感などもよく分かって、いっそう臨場感をもって興味深く読めるかと思います。

オススメの一冊です。

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2012年08月28日

「歓喜の街カルカッタ」


 先日来、「湯沢台の聖母」誌の記事から引用させていただいているマザー・テレサのお話ですが、原作は翻訳されて「歓喜の街カルカッタ」という題で、日本語で出版されているそうです。


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歓喜の街カルカッタ〈上〉 (河出文庫) [文庫] / ドミニク ラピエール (著); Domi...


歓喜の町カルカッタ〈下〉 [単行本] / ドミニク ラピエール (著); 長谷 泰 (翻訳);...


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著者ドミニク・ラピエールと語り合うマザー・テレサ (原書の裏表紙より)

 


 レビューもついでに御紹介します。

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レビュー対象商品: 歓喜の街カルカッタ〈上〉 (河出文庫) (文庫)

人生観が変わるかも...,
2005/6/13 By "saramariko"

特に前情報なしで購入したのですが、
2日間であっという間に読んでしまいました。
インドは最悪なものと最善のものが同居する不思議な国..とは
聞いたことがありましたが、その両方が本当に良く描かれています。
主人公は複数居て、メインの主人公は神父ですが、
宗教の押し付けがましさは全くなく、
それでいて、人が出来うる最善とは...を考えさせられる逸作だと思います。
旅行名所以外のインドを知りたい人、インドに特に興味がなくても
最近、自分がちょっと不幸かも?...とか思ってる人には
強くお勧めします。
その理由は読んだ人だけが分かるだろうと思います。
上巻しかまだ読んでいませんが、すぐ下巻を購入予定です。

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レビュー対象商品: 歓喜の街カルカッタ〈下〉 (河出文庫) (文庫)

なんという美しさ、なんという悲惨さか
2003/5/3 By ふろ

この本を検索して、レビューを読もうなどという人は
どういう人だろう(笑)?

この長いノンフィクションは、とても感情的だ。
著者はカルカッタで生きる人間に寄り沿って、軋むように共鳴している。
スラムで息を吸っては吐き、食事をして排泄して、眠る。
人々の間から私に語り続ける。
なんという美しさ。なんという悲惨さ。

読者は匂い立つような熱っぽさ、湿った情緒と衝動を感じるだろう。
彼らの思考をリアルに感じ、大いなるものへの畏怖を知る人に
深い尊敬を抱く。
同時に首根っこを掴まれて深い溝を覗き込んでしまう。
脅迫する溝だ。

私はこの本を読み終えて、物乞いをする人に腕を掴まれた時に
内臓を突き上げる、単純で強い衝撃を思い出した。

私達は対人として向き合!って、お互いに何を知るというのか、
この衝動をどうしたらいいのか、と。

本当は星5つにしたいのだけれど、く~っ!訳の日本語が…。

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歓喜の街 2007/12/29
By ブライアン
形式:単行本

生きるということは難しい。

生きることは精一杯だ。だが、ここで息をするのだ。
喜びを感じるのだ。それから、誰かの行動を信じるのだ。

あらゆる価値観を超えたところで人々は生きている。

その価値観の向こう側に、今生きているのだろうか、と今の生活を考えるのだ。


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 映画「シティ・オブ・ジョイ=歓喜の街」は、ビデオ化されたそうです。
 娯楽作品ではないので、なかなか置いているレンタル店はなさそうですが、見つかるといいですね。

img_24152_29439236_0.jpg

 以下のブログでも紹介されていました。

city of joy
http://blogs.yahoo.co.jp/mwmtc889/29439236.html


ご参考までに。^^


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