2017年08月05日

雪の聖母マリアの祝日


雪の聖母マリア.jpg


 今日は、「雪の聖母大聖堂献堂」の祝日(一級大祝日)です。
初土曜日でもありますね。


 リベリオ教皇によって4世紀に建てられ、5世紀前半までかかって、増築、完成した 聖マリア大聖堂(マリアマジョーレ)を、記念する日です。

 雪の聖母大聖堂と呼ばれるのは、聖母マリアが、大聖堂を立てて欲しいと望まれたところに、真夏に雪を降らせて示された、という伝説があるからです。


 今日も、朝ミサと聖母のノヴェナに、行くことができました。感謝です。

 いろいろな聖母の祝日をお祝いできるのは、嬉しく、幸いなことですね。


雪の聖母の聖堂.jpg
定礎式で雪に鍬を入れるリベリオ教皇



ローマの聖マリア大聖堂.jpg
ローマの雪の聖母大聖堂


雪の聖母の聖堂3.jpg
雪の聖母大聖堂の内部 


雪の聖母の聖堂2.jpg
大聖堂の内部 天井と側廊



秋田の雪の聖母.jpg
>オマケ 秋田の雪のマリア様(^^)


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2017年06月16日

いのちがいちばん! 「もう一人」運動はいかがですか?



マーチフォーライフ2.jpg
マーチフォーライフ2016(舟木撮影)より
どこかでお見かけしたような方も笑顔で参加しておられますね
 


 プロライフは、カトリック信者にとっては当然のことです。
 昔は、「カトリックの子だくさん」などと、一般にもよく言われていました。長崎あたりでは、司教様が「まぁ、子供5人持って親として一人前」とか、おっしゃっていたそうです。

 ところが、最近は、カトリックでも「子だくさん」どころか、平気で堕胎も避妊も 公に容認している有様です。(両方とも、霊魂から聖寵を失わせる「大罪」です。)
 私の友人なども、「二人で充分!もう縛ってもらっちゃったわ」などと平気で言っています。私は、この「縛ってもらった」というのが何かよくわからないのですが、子供ができないようにしたそうです。
 そこですぐに、「それは大罪よ、わかっているの?」と、言えない自分が情けない。勇気が無い、真実を告げる本当の愛が無いんですね、きっと。
 
 カトリック系の掲示板でも、以前、「もともと教会は、弱い立場の人の堕胎には寛大だった = 容認していた」(*1)という主旨の、とんでもない意見が、もっともらしく出た時に、皆が一斉に反対すべきなのに、誰も何も言わなくて残念に思いました。コムズカシイ教義的議論の時は、堂々と意見するような知識溢れる方々も、ほとんどスルーしていました。
「堕胎は殺人の大罪」など、アタリマエすぎて言う必要もない、と思われたのか、アタリマエすぎて議論しても面白くない、と思われたのか。。。残念です。

 でも、こういった「教会の教えに明らかに反する意見」が、「カトリック」を謳う掲示板(あるいはフェイスブック、などなど)で出た時は、管理人はもちろん、それを読んだ参加している信徒たちも、ただ一言でも反対意見を述べる義務があるのではないか、と思うのです。
 多くのカトリックの人々も、もはや正しいカトリックの教えを知らないのかもしれませんが。

「1。人間の受精卵の性格とアイデンティティーを考えた場合、人間の受精卵に対してどのような尊重を払うべきか。
人間は、その存在の最初の瞬間から人間として尊重されるべきである。」
(生命のはじまりに関する教書ー教皇庁教理省 p。23)

「519。婚姻の第一の目的は、天主の御定めにより、子を挙げることでありますから、避妊を計るような行為は婚姻の目的に背く甚だしい大罪であります」
(公教要理 ドンボスコ社 p。219)



 ところで、最近になって、伝統的なカトリックのグループで、プロライフ(命を守る)活動が増えているようです。すごく良いこと、そして本当に大事なことと思います。

 新しく素晴らしいブログが始まりました。
リンク先http://blog.goo.ne.jp/fatimanoseibo

 マーチフォーライフへの参加者も増えたようです。
 今年は7月17日にあります。応援しています。


マーチフォーライフ.jpg




 マザーテレサは、未婚の女性たちに、「堕胎せず生む勇気を持ってください」と、おっしゃっていました。日本での最初の活動の一つは、やむない事情で妊娠したシングルマザーを保護し助けることでした。

しかし、今の日本の場合、むしろ既婚の女性たちにも、そう言いたい!

経済的に苦しくなるかもしれません。
親族に、反対されるかもしれません。

本当に、世の風潮とはおかしなもので、
年取って授かった尊い子供を、「恥かっき子」などと言って蔑む。
そのくせ、倫理に反することは、「男の甲斐性」などと言って持ち上げる。

このような勝手なことを言う世相に負けないで、子供を守ってほしい、と思います。
小さな命を守ってあげられるのは、お母さんとお父さんしかいないのですから。

子供の命を守る両親には、必ず大きな祝福があるでしょう。
「見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。
壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。
矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。」
(詩篇127・3〜5)


「そんなこと言ったって、そう子沢山というワケにもいかない」と、思われるかもしれません。でも、まずとにかくこの一人、お母さんのお腹にいる「この子」を受け入れてほしい、と願います。

 カトリックの家庭だけでなく、日本のすべての家族のために「もう一人運動」と思って祈っています。
 各家庭もう一人ずつだけでも、どれほど多くの命が救われることか。それが日本にとって、どんなに大きな祝福となることか。

 すべての罪なき胎児の御母 聖マリア、我らのために祈り給え。
 アーメン。なれかし。
 


(*1)極端なケース、例えば、カトリックでない配偶者に堕胎を強制され、暴力を振るわれるような場合、その立場に同情し、罪ではない形で助けます。が、罪の容認はありません。
 「仕方ない、殺しなさい」はありえないし、
 「仕方ない、踏み絵を踏みなさい」はありえないのです。



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2017年02月23日

「聖書正典」を故意に軽視するものは破門という深刻な問題について


 カトリック教会が、聖書の正典目録に入れる書物を区別する基準は、「聖霊の神感」です。したがって、聖霊の神感を受けた書として認められたものは、正典目録(カノン)に加えられ、「カタニコイ」(正典書)と呼ばれました。
 聖霊の神感を受けた書物だといううわさがあっても、実際上、その保証のないものは、正典書として認められず、後に「外典書」と名づけられました。

。。。。

 聖書正典の中で、最後に書かれたのは、ヨハネの福音書 / ヨハネの手紙で、1世紀末(西暦90〜100年)頃と言われています。
 聖書の正典目録が完成したのは、かなり時代を下ってからのことですが、その後は決してブレることなく、一貫して73書の伝統的なカトリック教会の聖書を世に示し続けています。


 各時代に、教皇書簡や公会議などで、度々、聖書正典目録は再確認されています。
 その中から、公会議の宣言文を数例、ご紹介します。

。。。。。。

第3カタルゴ教会会議(397年)
「正典目録にあるもの以外は、教会内で聖書として読んではならない。正典は次のものである。」

第1トレド教会会議(400年と447年)
「カトリック教会が認めている以外の聖書を権威あるものとして敬うべきだと信じるものは排斥(破門)される。」

フィレンツェ公会議(1442年)
「旧約および新約聖書、すなわち律法と予言と福音の作者は、唯一の同じ神であると宣言する。事実、旧新約両聖書の聖なる人々は、同じ聖霊の神感によって語ったのである。次の目録に載せた書を受け入れ、そして尊敬する。」


いずれも、宣言文の後に、カトリックの伝統的な「聖書目録」が載せられています。
正典目録はコチラ↓
カトリック教会の真の聖書とは?
http://akitadiary.seesaa.net/article/446207315.html

。。。。。。。。。。。

 16世紀になり、プロテスタントが発生すると、彼らはカトリック教会に反対し、以前に何度も排斥された異端説を持ち出すなどして、旧約及び新約聖書の一部分を正典と認めないと主張しました。

 旧約聖書では、トビアの書、ユディットの書、知恵の書、集会の書、バルクの書、マカべの書前後の7書全体と、エステルの書、ダニエルの書の2書の一部分で、それらを「外典書」(聖霊の神感のないもの)と呼ぶようになりました。
 また、それまで、カトリック教会が「外典書」としていたものは、上記のものと区別して「偽典」と呼ぶようになりました。

 新約聖書では、ヘブライ人への手紙、ヤコボの手紙、ユダの手紙、ペトロの第二の手紙、ヨハネの第二第三の手紙、ヨハネの黙示禄などが、プロテスタントの一部に反対され外されたそうですが、議論ののち再び正典と認めることになったそうです。 特に、マルティン・ルターが「ヨハネの黙示録」を、正典と認められなかったことは有名な話ですが、彼の後継者によって聖書に戻されました。


 カトリックでは、プロテスタントとの議論のために、彼らが正典と認めないことにしたこれらの部分を、便宜上「第二正典書」と呼び、それ以外のものを「原正典書」(あるいは第一正典書)と、呼ぶようになりました。

 しかし、第二正典と呼ばれた部分が原正典より劣るということではなく、同等に尊ぶべきものと教えています。カトリックの聖書の目次などでも、差別はありません。聖書正典のための承認が遅かったとしても、「聖霊の神感」によって書かれたことに違いはなく、人間の判断に時間がかかったということです。


。。。。。。。。。。。

 そのような混乱した状況下で、カトリック教会は、この問題を決定的に解決し、聖書の正典をはっきりと再確認するために、トレント公会議1546年の第四総会で、聖書と使徒の伝承に基づいて、以下の宣言を出しました。

 「聖霊によって、合法的に召集された聖なるトレント公会議は、使徒的座(=教皇座)の三人の使節の指導のもとに行われ、次の目的を常に目指している。すなわち、すべての誤謬を取り除き、教会の中に福音の純粋性を保存する目的である。
 福音はその昔、予言者によって聖書の中に約束され、まず神の子イエズス・キリスト自身の口によって公布され、次にその使徒たちに、すべての救いの真理と道徳律の源泉として「すべての被造物に」(マタイ28・19以下、マルコ16・15)伝えるように命じられたものである。
 この真理と規律は、書かれた書物と、書かれていない伝承とに含まれている。
 伝承は、使徒たちがキリスト自身の口から受け継ぎ、または聖霊の神感によって、手から手へ渡すようにして、使徒たちから私たちに伝えられたものである。私たちは、正統派の教父たちの模範に従って、旧約と新約のすべての書物を受け入れ、尊敬する。それは、唯一の神が両聖書の著者だからである。
 また同じように、キリストによって口授され、聖霊が書き取らせ、カトリック教会の中に受け継がれ、保存されている信仰と道徳に関する伝承を、同じ敬虔の情と尊敬の心をもって受け入れ、尊ぶものである。
 だれひとりとして疑う者の無いように、この公会議が認めた聖書の目録をこの教令の中に書き記すものである。聖書の目録は次の通りである。」


 聖書の目録をのべてから、トレント公会議は、続ける。

 正典目録はコチラ↓
http://akitadiary.seesaa.net/article/446207315.html


「以上の書物を、カトリック教会において普通に読まれている古代ラテン語訳ヴルガダ版に従って、全部を残らず そのすべての部分をもって、正典に属する聖書として受け入れなかったり、上に説明した伝承を、知りながら故意に軽視したりする者は排斥(破門)される。」
〔トレント公会議 DENZ. 1501、1504〕

。。。。。。。。。

 これによって、全く疑いようもなく聖書正典は確認され、宣言されたのです。

.......................................


 ところが、これに反する動きが1960年ごろから起こり始めました。共同訳聖書を作る動きです。


 共同訳聖書は、1966年にプロテスタントの聖書協会世界連盟とローマの教皇庁キリスト教一致推進事務局とが合意して「標準原則」として指針が示されました。が、この指針は、プロテスタント側が優先され、危険な妥協が潜んでいる、とデルコル神父様は警告していました。事務局は正式な聖省ではないし、教会の方針を尊重しないならば権威が無いのです。
 
 日本では、1970年頃に共同訳聖書の翻訳が始まりました。

 出来上がったものは、プロテスタントの慣例を優先させたものでした。いわゆる「第二正典書」と呼ばれる部分を、カトリックの聖書として本来あるべき位置から全て抜き出して、まとめて、「続編」として旧約の最後に付け足しのように載せたのです。

 新共同訳聖書は、さらに悪く、カトリック教会が明らかに「外典書」とした書物、そしてプロテスタントが「偽典」とまで呼ぶ書物を、あたかも「続編」の一部かのように加えてあるのです。

 これについての注釈は、別の場所、しかも巻末の誰も見ないような場所に書かれているだけです。この「注釈」を見損なって、本文そのまま「聖書」と信じてしまえば、異端として「排斥される(破門される)」というほど信仰に反したものであるのに、これが推奨され、多くの司祭、修道者、一般信徒に読ませているのが、日本のカトリック教会の現在の状況なのです。


 聖書の日本語訳に長年関わられ、旧新約聖書の翻訳で文化功労賞さえも受けられたデルコル神父様の義憤の声をお聞きください。

。。。。。。。。。。。
(引用ココから)

新共同訳の立場 (続編と外典書)

さて、新共同訳(聖書)では、どうなっているのだろうか?

 第二正典の書物、またはその部分を、第一正典の書物から別にして、「続編」として第一正典の次に置いたことは、トレント公会議の決定に合わないというべきである。
 また、「続編」の最後の三つとして、確実に外典書(偽典)であるエズラ記第三と第四、そしてマナッセの祈りを同程度に加えたのは、なおさらトレント公会議とその以前のすべての公文書を無視したものである。このように、何の区別もなしに、何の注もなしに、何もことわらないで(*カトリックが正典と認めないものを正典であるかのように)加えたのは、聖書と聖書を忠実に守る使命を受けているカトリック教会とに対するこの上もない侮辱である。

 新共同訳聖書の巻末にある「付録」(6ページ)には、この三書について、「いずれもカトリック教会では正典の中に数えられていない」と言っているが、それなのに、なぜ他の続編と一緒に置いているのか? 巻末の付録のことばを、だれが読むのか? わたしは、何人かの聖職者に聞いてみたが、その付録があることにさえ気がついていなかったそうである。

 新共同訳のこの位置づけは誤解を招くものである。 
 おまけに、「続編」とその最後の三つの外典書が入っているのは、新共同訳のカトリック用の版だけで、プロテスタント用の版には入っていない。

 日本の一般信徒も聖職者もだまされて、あの三つの外典書(偽典)は本当の聖書であるかのように考えるようになり、いわゆる第二正典書は他の正典書に劣るものと考えるようになる危険がある。


 また、このやり方は、聖書とカトリック教会とに対するこの上もない侮辱である、と私は先に言った。カトリック教会が、公会議、教会会議、諸教皇の教令などによって、疑えないほど明白に自分の信仰を宣言したにもかかわらず、それを全部無視しているからである。

 新共同訳に協力したカトリック側のメンバーたちは、こうして、教導権の確かな教えに背き、カトリック教会を裏切ったというべきである。


ご存知ですかシリーズ35 「神のみことば その啓示と伝達」 
デルコル神父著 世のひかり社1989年6月29日発行 30〜32ページより引用


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参考文献

1。口語訳 新約旧約 聖書 ドン・ボスコ社発行 (全聖書序論、各書の解説等)

2。ご存知ですかシリーズ35 「神のみことば その啓示と伝達」 
  デルコル神父著 世のひかり社 1989年発行

3。公教要理

*。文献によって、日本語の翻訳の言葉が、「聖霊の神感」「聖霊の霊感」「霊感」などと違いがあるのですが、同義語と思われます。ここでは、「聖霊の神感」で統一しました。


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2017年01月26日

「聖書の何たるか」を理解する

 
聖書と教皇ベネディクト十六世.jpg


 「聖書」についてのカトリック教会の基本的な教えが、分かりやすくまとめられた部分を、全聖書序論より引用してご紹介したいと思います。
 聖書の聖句を黙想することも大事ですが、まず、
「聖書の何たるか」を理解するよう努めることも、さらに大事と思います。

 下記の内容は、「公教要理」の聖書についての部分と同様ですが、さらに詳しく説明されているので、参考になるかと思います。
 ここで、「霊感」と言われているものは、公教要理で「聖霊の神感」と言われているものと同義です。
(公教要理の該当箇所は、一番下に載せますのでご参照ください。)

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4福音記者.jpg



(引用ココから)


霊感

 聖書の本は、人間の本ではなく、神の本である。それらの本を書いた第一の著者は、神だからである。
 これらの本を書いた人は、「霊感」とよばれる神の特別な保護と指導とをうけて、書きあげた。霊感についての、この教義は、多かれ少なかれ聖書の本のいろいろなところに、暗示されている。(とくに、ティモテオ後3・16、ペトロ後1・20−21)。教会の教父と博士たちも、そのことを、はっきりと教えており、カトリック教会も、それを信仰の教義と定めている。

 この教義によると、「霊感」は、聖書の本を書いた人間に対しておこなわれる神の特別な保護と援助である。これによって聖霊は、「超自然の力によって、かれら(聖書著者)に、書くようにすすめ、うごかし、かれらが書いているあいだには、神のご命令になるすべてのことを、そして、そのことだけを、正しく考え、忠実に書きしるしたいとのぞませる。さらに、あやまりない真理を、適当に表現するように、かれらを保護される」(”プロヴィデンティッシムス” 回勅#1893年渙発)。

 これによると、聖書著者にたいする神の御働きは、三つに分けて考えられる。

1。聖書著者が「正しく知る」ことのできるように、その知恵を照らす(これを知恵の照明という)。
2。かれらに、「忠実に書く」のぞみを起こさせるように、かれらの意思力に働きかける(これを意思の発動という)。
3。それを「あやまりなく正しく」しるすように、書く場合に保護する(これを記述の保護という)。

 しかし、著者である人は、「霊感をうけて」神の口述によって書く単なる書き写し手だと考えてはならない。あるいは、意識なしに、虚脱状態で書いていたと考えるのも、あやまりである。
 著者である人間は、完全に自分の自由と、個性と、教養とを保ちつつ、しかも、神の干渉をうけて、超自然の世界にあげられる。こうして、個々の本の思索と記述との、人間的な、自由な道具となるのが、著者である人間である。

 そのために、聖書の各本と各部分との第一の著者は、神であり、手段的な道具的な著者として、人間をおくわけである。人間としての著者の、その文体や性格や教養やそういったものを研究することも、したがって正しいわけである。霊感をうけていても著者の人間的な個性は残されて、それが完全に表現されているからである。

 かれらの著作に、あやまりがないという点は、「霊感」の保護のためであるといってよい。実に、神が聖書の本の第一の著者であるのなら、その本にしるされているすべての宣言は、神ご自身の宣言であるわけである。真理そのものである神は、あやまちをすることも、他のものだますこともありえないのであるから、霊感をうけてしるされている本は、絶対に、あやまりのないものだと考えなければならない。
 「霊感」をうけてしるされたものではあっても、人間として、人間の表現を用いている人間の著者のほうは、比喩を用いたり、自然現象をしるすために、当時の表現を用いたりしているが、それはゆるされていることである。そういう表現は、比喩として解釈するか、あるいは科学的な事実ではなくて、単に自然現象の記述として解釈しなければならない。たとえば、「神の怒り」、あるいは、「後悔」などが、聖書に出てくるが、それは、比喩的な言い方である。あるいは、「太陽が昇る」、「日が暮れる」というのは、一般の人の用いていた言い方である。

 また注意すべきは、現在のある聖書テキストの中にあるあやまりは、長い世紀にわたって原文を書き写し書き写ししてきたときの写しあやまりか、訳のあやまりである。

 「霊感」の教義を教えて、保証しているのは、カトリック教会である。カトリック教会は、この点について、昔のユダヤの教えにも基づいている。

 カトリック教会の権威を否定したプロテスタントは、聖書が霊感によるものであることを証明し、あるいは、認めるために、各時代にわたって、カトリック教会のこの教導権にかわるものを見つけようとしたが、結局は失敗し、現在は、その点について放置されている状態である。

「口語訳 旧約新約聖書」バルバロ/デル・コル訳(ドン・ボスコ社1964年発行) 
全聖書序論 10〜12ページより引用



。。。。。。。


聖書著者3.jpg

四福音史家


公教要理 第一部 第二課 〔信仰とその源〕より

8 天主の啓示し給うた事柄を、人々に教えるのは誰ですか。
  天主の啓示し給うた事柄を、人々に教えるのは、公教会であります。
  「汝等往きて万民に教えよ」(マテオ 28-19)

9 公教会が教える天主の啓示は、何に含まれていますか。
  公教会が教える天主の啓示は、聖書と聖伝との中に含まれています。
   聖書と聖伝とを信仰の二つの源(みなもと)と申します。そしてこれらは天主の特別の御助によって、誤りなく、公教会に保存されております。

10  聖書とは何でありますか。
聖書とは、聖霊の神感によって、天主の御言葉を書きしるした書物であります。
   聖霊の神感とは、天主の超自然の御助によって、一、聖書記者に筆をとる心を起させ、二,内容を示し、三,書く時に誤りがないように導くことであります。

公教要理の全文はコチラ
http://www.d-b.ne.jp/mikami/catech.htm#02



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2017年01月22日

カトリック教会の真の聖書とは?

聖書と教皇.jpg




 「聖書は神感によって書かれた書物である」と、カトリック教会の教導権をもって宣言されたことに「聖書」の聖なる書物としての根拠があります。

 この教導権を否定していながら、プロテスタントが聖書を絶対視するのは、どう考えても矛盾しています。突き詰めれば、「個人の理解」として「私はこの本が聖書だと信じる」という他に根拠がないからです。

 こうした根本の問題を抱えていれば、その解釈についても、プロテスタント各派、各人の、それぞれの意見が出て、食い違いや誤りが起こり得るのは当然の事です。それは聖書の翻訳にも反映されますので、カトリック者は、カトリック教会が正典と認めるすべての書を含んだ「真のカトリックの聖書」を読むべきです。

  エキュメニカルな対話は大切とはいえ、プロテスタント諸派との安易な迎合は、「唯一、聖、公、使徒承伝」というカトリック教会の本質を破壊するものではないでしょうか。

 一般にプロテスタント主流各派の聖書は66巻のみ、その他は様々ですが、新興宗教的なものの中には教祖様の書いたものを別巻として加えたりしているものもあります。

 カトリックの伝統的な聖書の正典(全73巻)は以下の通りです。

 各書の日本語の呼び方は翻訳によって何通りかあるのですが、ここでは「口語訳 旧約新約聖書」バルバロ/デル・コル訳 (ドン・ボスコ社1964年発行)の目次より引用します。

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旧約聖書(46巻)

【歴史書】

創世の書
出エジプトの書
レヴィの書
民数の書
第二法の書
ヨズエの書
判事の書
ルトの書
サムエルの書 上
サムエルの書 下
列王の書 上
列王の書 下
歴代の書 上
歴代の書 下
エズラ
ネヘミア
トビア
ユディット
エステル
マカベ前書
マカベ後書


【教訓書】

ヨブの書
詩篇
格言の書
伝道の書
雅歌
知恵の書 
集会の書 


【預言書】

イザヤ
イエレミア
イエレミアの哀歌
バルク
エゼキエル
ダニエル
ホゼア
ヨエル
アモス
アブディア
ヨナ
ミカヤ
ナホム
ハバクク
ソフォニア
ハガイ
ザカリア
マラキア



新約聖書(27巻)

【歴史書】

マテオによる聖福音書
マルコによる聖福音書
ルカによる聖福音書
ヨハネによる聖福音書
使徒行録


【教訓書】

ローマ人への手紙 
コリント人への前の手紙 
コリント人への後の手紙 
ガラツィア人への手紙 
エフェゾ人への手紙
フィリッピ人への手紙 
コロサイ人への手紙
テサロニケ人への前の手紙 
テサロニケ人への後の手紙
ティモテオへの前の手紙
ティモテオへの後の手紙
ティトへの手紙
フィレモンへの手紙
ヘブライ人への手紙

ヤコボの手紙
ペトロの前の手紙
ペトロの後の手紙
ヨハネの第一の手紙
ヨハネの第二の手紙
ヨハネの第三の手紙
ユダの手紙

【預言書】

ヨハネの黙示録


。。。。。。。。。。。。。。。


〔トレント公会議 DENZ. 1504〕

「以上の書物を、カトリック教会において普通に読まれている古代ラテン語ヴルガダ版に従って、全部を残らず そのすべての部分をもって、正典に属する聖書として受け入れなかったり、上に説明した伝承を、知りながら故意に軽視したりする者は排斥される。」(* 太字の部分は、日本語訳では抜けている)


 第一次ヴァティカン公会議(1870年、DENZ1787)も、第二次ヴァティカン公会議(1965年)も、トレント公会議の教えをそのまま伝えている。


〔第二ヴァティカン公会議/神の啓示に関する協議憲章11〕

「教会は、旧約及び新約の全部の書をそのすべての部分を含めて、使徒伝来の信仰にもとづき、聖なるもの、正典であるとしている。なぜならば、これらの書は、聖霊の霊感によって書かれ、神を作者とし、またそのようなものとして、教会にゆだねられているからである」。



「神のみことば – その啓示と伝達」 デルコル神父著(世のひかり社発行)
(29〜30ページ)より、公会議文書の部分は引用しました。


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2017年01月02日

尊者チマッティ神父様の奇跡


チマッティ神父様



 チマッティ神父様とは、イタリア人のサレジオ会員で、1926年に来日してから1965年に亡くなるまで、日本の宣教と司牧に尽くして下さったカトリック司祭です。
(「尊者」とは、カトリック教会が正式に調査した後、聖人と認められるような隣人愛と聖徳に生きた人々に授けられる称号です。)
 
チマッティ神父様と子供たち
子供たちに囲まれるチマッティ神父様



詳しくはコチラ
http://www.v-cimatti.com/



 生前は、その音楽の才能と謙虚な奉仕で有名になられましたし、没後は、その奇跡で知られるようになりましたので、ご存知の方も多いでしょう。


チマッティ神父様コンサート
イタリアや日本各地で宣教と奉仕のために何度もコンサートをされた神父様



チマッティ神父様の奇跡というと、2種類考えられると思います。

まず、ご自身に起こった奇跡として、そのご遺体が腐敗を免れていることです。

チマッティ神父様は1965年10月6日に亡くなられ、1976年には列福調査が始まりました。以下はその調査の遺体検証の様子です。

。。。。。。。。。。。。。。。。

1977年11月18日、教会の規定に従って棺を開き、二人の医師が遺体を検証した。医師団は次のとおり証言した。

「遺体はミイラ状態に非ず、死蝋状態に非ず、白骨化せず、全身にやや湿潤す。死臭は存せず、ただし、特別の匂いあり。皮膚は弾力性あり、。。。。軟部組織は柔軟にして弾力性あり、。。。。諸関節は他動的にほとんど正常範囲まで運動可能なり。。。。。以上の所見を総合して、死後十二年を経過したる死体としては、われわれ二人の医学常識によっては説明することは不可能なものであることを認めたい」。
遺体は新しい服を着せられ、新しい石棺に安置された。

(「チマッティ神父 日本を愛した宣教師」 テレジオ・ボスコ/ガエタノ・コンプリ共著 ドン・ボスコ社発行 59ページより引用)

。。。。。。。


 最後に、「遺体は新しい服を着せられ、新しい石棺に安置された。」と、ありますが、1965年に亡くなった時、府中カトリック墓地に土葬され、その後神学院の地下聖堂に移され、死後12年以上経っていますから、身体は奇跡的に生前のままの状態で保たれていても、たぶん服のほうは自然に風化されるままで、ボロボロだったのかもしれません。その辺の事情は記録がありませんが、服がきれいに残っていたら、奇跡の一部としてそのまま着せていたのではないでしょうか? 


 遺体が腐敗を免れる、というのは、一般に「聖人の印」であると言われています。

 ルルドの聖ベルナデッタさまや聖心の聖マルガリタ・マリアさまなど、カトリック教会の聖人には多数の例があります。
こういった聖人方のご遺体は、普通はガラスの棺に納められて、訪問者から見えるように祭壇近くに置いてある場合が多いです。


聖べルナデッタ
聖ベルナデッタの御遺体ー腐敗防止処置は施されていない




チマッティ神父様のご遺体は石の棺に納められていて、訪問はできるようですが、残念ながら中は見えないようです。

チマッティ神父様棺2




次に、チマッティ神父様の取り次ぎによって起こった他の人々への多くの奇跡です。

ここで、奇跡というのは、「奇跡的恵み」と考えられるもので、教会で認可された「奇跡」ということではありません。
が、希望が失われたように思われる時に癒しを受けた方々にとって、かけがえのない恵みに違いはありません。

鬱病の治癒、癌の治癒など、多くの恵みの報告があるようですが、その一部は以下のリンク先でお読みいただけます。

チマッティ神父の取り次ぎによる恵み
http://www.v-cimatti.com/pub/beatification/reppuku_toritugi.htm


毎月6日に、チマッティ神父様の特別の取り次ぎを願って御ミサが捧げられます。
FAXで意向を送って御ミサで捧げていただけるようお願いすることもできます。

私も、主人の甥が目の具合が悪くなり、「手術をしても50%の確率(で失明する)」、手術をしなくてもだんだん悪化して失明する可能性が50%」と、どうにもならない状況で、ミサの意向に加えていただけるようFAXでお願いして祈った後、悪化が止まり、手術をせず小康状態を保つようになりました。

私たちのために、やさしく力強い取り次ぎ手が天国にいらっしゃると思えるのは、ありがたいことですね。
機会があったら、調布サレジオ神学院のチマッティ資料館、地下聖堂にある棺を訪問したいです。

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2016年12月22日

すべてのカトリック者のための聖伝ミサ


聖伝のミサ(トリエント・ミサ)は誰でも与かって良いのでしょうか?
カトリックの司祭は、誰でも皆、捧げても良いのでしょうか?

 はい、大丈夫です。
すべてのカトリック信徒は、このミサに与ることが、許可されています。
 そして、
すべての司祭は、トリエント・ミサを捧げることが、世の終わりまで、絶対的に許可されています。



「ヴァチカンの道」(横浜アクショングループ発行)第19巻 第3号の 
「何故教皇様は司祭がトリエントミサを捧げ信者がそれに与る権利を再確認なさったのか?」という
 福島睦男氏筆の記事より引用したいと思います。



。。。。。。。。。。。。
(引用ココから)


 伝統的ラテン語ミサが、トリエント・ミサと広く呼ばれるようになった理由は、トリエント公会議(1545〜1563)の命令に基づき設けられた神学者の委員会が、古代からの各時代のミサ典書の写本と典礼様式を精査・比較、その結論を受けて、聖ピオ5世が、当時バチカンのクリア(内閣)と西欧の多くの国々で、既に使われていたミサ典書を、その内容の神学的正確さと深遠さに鑑み、全世界の教会が使用すべきミサ典書として選択、勅令『クオ・プリームム』により、教皇の最高の権威を持って、その祈りの文言を固定し、この典書の使用を命令し、出版したからです。
 
(中略)

 この時、聖ピオ5世は、古代から受け継がれてきたミサ典文が、信仰を防御し、育て、強固にする豊かな内容を備えていることを深く考え、ミサ典書そのものを異端に対する防壁としたのです。
同教皇は、賢明にも、将来同じような異端が、表面上の装いと表現を巧妙に変えて、ある種の神学者の心に入り込み、「ミサ典書の典文の意味の歪曲を目指す可能性」を予見したのです。

そのため彼は、世々、トリエント・ミサの典文を厳密に防衛すべきことを命じました。このミサ典書の文言を削除してはならず、何も付加してはならないと命じた上、違反者への最後の審判での神の永遠処罰に関する警告を、勅令『クオ・プリームム』に組み込んだのです。

 この勅令の最も重要な部分は次の通りです。


 「永遠に法的拘束力を持つこの憲章により、私は、新たに出版されたこのミサ典書に、何も付加してはならず、何も省略してはならず、また、ここにあるどんな文言も変更してはならないと、申し付け、命ずる。
 私は、すべての教会において、このミサを、歌ミサ、あるいは読誦ミサとして捧げる際、司祭は、何の良心の呵責も感じる必要もなく、どのような罰則、判決、避難を受ける恐れも無く、絶対的に、このミサ典書を使用する永遠の許可と承諾を与える。
 司祭がこのミサ典書を使用するのは自由かつ合法である。」



(引用ココまで)
。。。。。。。。。



 聖ピオ5世教皇様の、なんと力強い、はっきりしたお言葉でしょうか。

 使徒継承のカトリック教会のミサ、すなわちトリエント・ミサを守るために、この勅令は1563年に発布されました。
 この勅令を出すにあたって、トリエント公会議の間(約18年)、多くの神学者たちが、古代の典礼文から始まって当時の最新の典礼文まで、ほぼすべての典書や写本を網羅して調査、研究して、最終的に絶対的決定版としたのが、トリエント・ミサなのです。
 しかも、教皇様の出される書簡の中では重要性の高い「勅令」によって、「すべてのカトリック司祭がトリエント・ミサを捧げる絶対的な永遠の許可を与えられている」のです。

 2007年にベネディクト16世教皇様の出された自発教令『スンモールム・ポンティフィクム』は、トリエント・ミサの この「絶対的な永遠の許可」を再確認したものです。
 新ミサが発布されたとしても、このトリエント・ミサの「絶対的な永遠の許可」は常に有効で、取り消し得ないものである、と。
 このミサは、”けっして廃止されていない”(numquam abrogatam)と。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message243.htm


 トリエント・ミサは懐古的なミサなのではなく、時間を経ても価値の変わらない真にカトリック的な美しいミサなのです。

 それほどに素晴らしいミサなので、もっと多くの司祭が捧げられ、もっと多くの信徒の方々が与る機会がありますようにと、心から願っております。



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