2017年10月26日

タルチシオ菊地功司教様、東京教区の大司教に任命される


Screen Shot 2017-10-26 at 2.57.11 PM.png


新潟教区の菊地司教様が、フランシスコ教皇様によって、東京教区の司教に任命されました。
心よりお祝い申し上げます。

立派な司教様なので、素晴らしい人選だと思います。
おそらく大司教様になられるのでしょうね。

現在も教区長の役割りのほか、カリタスなど、多くの仕事をこなされて、国内、国外を飛び回っていらっしゃる司教様ですが、東京教区は新潟よりずっと大きいので、ますます、お忙しくなりそうです。お祈りしております。


では、新潟教区はどうなるのでしょうか?

秋田は?

秋田の聖母マリア様の出現地を 大事にしてくださる司教様がいらしてくださいますよう、聖母マリア様、聖ヨゼフ様に、お祈りいたしましょう。

菊地司教様のフェイスブックに第一声がUPされていました。
https://www.facebook.com/bpisao

許可を願いつつ、FBは無いのでブログでシェアさせていただきます。

Screen Shot 2017-10-26 at 4.51.46 PM.png

*************************


以下は、バチカン・ラジオ誌の関連記事のリンクと一部の試訳です。
。。。。。。。。。。。。。。

Pope appoints a new bishop to Archdiocese of Tokyo, Japan
http://en.radiovaticana.va/news/2017/10/25/pope_appoints_a_new_bishop_to_archdiocese_of_tokyo,_japan/1345070

教皇フランシスコは、水曜日に、日本の東京大司教区の新しい司教を任命した。現・新潟教区司教であるタルチシオ菊地功司教(神言会)が引退したペトロ岡田武夫大司教から引き継ぐ。

タルチシオ菊地功司教は、1958年11月1日に岩手県宮古に生れ、1986年3月15日に司祭に叙階された。2004年5月14日に、教皇ヨハネパウロ2世によって、新潟教区の司教に任命された。司教叙階は、同年9月20日。

(中略)

東京大司教区は、面積7,344km、人口19,200,258人で、そのうち約0.5%がカトリックである。75の教会を有し、3名の司教と85名の司祭がおり、55の男子修道院と151の女子修道院がある。

(管理人試訳)

。。。。。。。。。。。。。。。。。


日本のカトリック中央協議会の発表はコチラ
https://www.cbcj.catholic.jp/2017/10/25/14984/

司教様のブログに、「新潟教区の皆さんに向けた挨拶のビデオ」が、UPされております。
司教様のブログは、まだ関連記事は出ていませんが、そのうち記事を挙げてくださるでしょう。
司教の日記
http://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com


にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
カトリックブログランキング- よろしければ、めでたしひとつと クリックひとつ お願いします。

2017年10月12日

トリエント・ミサの素晴しさを理解するために


先日の記事に、
「テレジアさん、トリエント・ミサのことをブログで私のように知らない人たちに分かりやすく噛み砕いて教えてくださいませんか?」
と、コメントをいただきました。

少し考えていましたが、トリエントミサのことがよく説明された記事を思い出しましたので、ここで許可をお願いしつつ、その部分を引用させていただきたいと思います。

下の引用記事内に、また引用があるので、ちょっとわかりにくいのですが、記事本文は福島睦男氏の著で、その中で、ラリー・ヘンダーソンという新聞編集者の文章が引用されています。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。
ヴァチカンの道 第19巻第3号 
「何故教皇様は司祭がトリエント・ミサを捧げ 信者がそれに与る権利を再確認なさったのか」より


(引用ココから)

 筆者は、読者の皆様に、何とかトリエント・ミサの霊魂の善のための力強い効果、その美しさを分かってもらい、使徒書簡の重大性を分かってもらおうと、心を込めて、この文を綴っているわけですが、ちょうどバッハのバイオリン協奏曲や ベートーベンのピアノ協奏曲・第五番の美しさを、実際の演奏なしで言葉だけで説明するようなもので、人間の言語の限界をはるかに超えています。やはり実際に演奏を聴いてもらうこと、ミサは与ってもらうこと、捧げてもらうことが、その深さを味わってもらう為には一番良いのです。

 そこで、苦肉の策として、生まれて初めてトリエント・ミサに与ったラリー・ヘンダーソンというカナダの新聞社の編集長が、『カトリック・レジスター』という 自社の新聞に書いた記事の中から、五つの段落を引用して、お目にかけたいと思います。

 米国との国境に近い ハミルトン市の聖マリア大聖堂での出来事です。

Hamilton St Mary's chuch.jpg
カナダの ハミルトン市の聖マリア大聖堂


Screen Shot 2017-10-12 at 10.53.37 AM.png
全国テレビのキャスターも務めたラリー・ヘンダーソン氏



「私は 過去に一度も トリエント・ミサに 与ったことがない。したがって、子供時代の思い出の引力とか、ラテン語への思い入れとか、新しいものは 何でも駄目で 古いものこそ良い といった感覚も無い。あの日 ハミルトン市で、このミサに与った数多くの若者たちと同じく、私もこのミサを ”発見する”立場 だった」

「その時、私が見出したのは、現代の基準から見れば、きわめて通常とは異なるものだった。強烈な精神集中のミサであり、すべてを 御聖体に収斂させる行為で 神の救いの力が 今 秘蹟を通して働いている現実への認識に満ちていた。」

「トリエント・ミサは、今日の典礼から決定的に欠落しているひとつの次元 ー すなわち神の栄光への畏敬と驚嘆の感覚、人間の卑小さと、神の憐れみの必要性 ー に、私を運び入れてくれた」

 「満員の聖堂で、礼拝という行為は、その古代からの機能 ー すなわち救霊の機能 ー を取り戻していた。
 出席者の多くがラテン語を知っており、長年使わなかったため ページが黄ばんでしまった 家庭用小ミサ典書を めくっていた。ラテン語を知らない人々も多かったが、その必要も無かった。

。。。この日私が経験したことを、背筋がぞくぞくするような ”spine−tingling” 体験と表現したとしても、控えめな表現ということになってしまう。」

 「このような体験は 懐古趣味とは 全く違うものだ。トリエント・ミサの魅了を感じるのは ラテン語専門家と学者だけではないか、などという考えは、その場に集まった人々を 見ているうちに消え去った。
席を 埋め尽した人々の 真剣な集中した顔、ー その多くは 人生の苦労が刻まれた顔で、ミサへの感動で 涙に濡れた顔だった ー 労働者たちの手からは ロザリオが下がっており、聖堂のあちこちで 御聖体にまします主を見せるため、一番幼い子供を抱き上げている若い父親たちの姿が、聖堂のそこここに見られた」





ヴァチカンの道 第19巻第3号 (平成19年12月25日)23ページ
福島睦男氏の記事「何故教皇様は司祭がトリエント・ミサを捧げ 信者がそれに与る権利を再確認なさったのか」より引用

。。。。。。。。

【参考】

カトリック・レジスターの現在のHP
https://www.catholicregister.org/about/history


ヘンダーソン氏は、1973年からカトリック・レジスター誌に執筆するようになり、翌年には編集者となった。
彼の功績によって同誌は勢いを増し、1986年の退職前には、購読部数が彼の執筆開始初期の3万部から6万部に倍増していた。
また、彼のリーダーシップにより、同誌は、カナダにおける堕胎反対運動の先鋒となった。

In 1973, Henderson began writing for the Catholic Register becoming its editor the next year. He revitalized the paper increasing its subscription rate from 30,000 to 60,000 before his retirement in 1986. Under his leadership, the newspaper became a leading voice in the Canadian anti-abortion movement.
(ウィキペディアより引用、管理人試訳)https://en.wikipedia.org/wiki/Larry_Henderson


ラリー・ヘンダーソン氏の写真はコチラから転載させていただきました。
http://www.cbc.ca/news/entertainment/former-cbc-newsman-larry-henderson-dies-1.591880

文中の「使徒書簡」とは、教皇ベネディクト16世の「スンモールム・ポンティクム」




にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
カトリックブログランキング- よろしければ、めでたしひとつと クリックひとつ お願いします。

2017年09月07日

私が「聖ピオ十世会」の教会に行く理由


piusX.jpg
教義/信仰の純粋保持に尽くされた聖ピオ十世教皇様



今週の日曜日9月3日は、聖ピオ十世教皇様の祝日でした。

ちょうど、オーストラリアでは、父の日にも当たっていたので、家族で主日のミサに与り、イタリアンランチに行きました。

私たちは、聖ピオ十世会の聖堂のトリエントミサに行っています。
美しいミサです。
ミサの前に、家族 皆、告解をして聖体拝領いたしました。

純粋なカトリック信仰をブレなく保っている唯一の教会グループだと思います。
平和です。幸いです。感謝しております。
子供達が成人しても、教会にとどまり、告解をし、日曜のミサに与れることは御恵みの印だと思います。


改革後のノブスオルドに行っている間は、辛かったです。
1968年頃、私が小学校四年生くらいの時に、教会の中で改革が起こり始めました。
ミサは変わりました。とても短くなりました。
慣れ親しんできた歌いやすい美しい聖歌は歌われなくなりました。
それまでは、聖体拝領は拝領台に跪いて受けていたのに、できなくなりました。
跪けば、司祭から叱られるようになりました。
シスター方が率先して立って手で聖体拝領して指導して、従わない人は変な人のように言われました。
聖櫃が神にふさわしい聖堂中央から端の方に寄せられました。
十字架像は取り払われました。
ロザリオは個人の信心だから自宅でするように、と言われて、教会内ではしないことになりました。
ベールは被らない、教会内では絶対に跪かない、という風になりました。
告解がしたくても、神父様から個人告解は必要ない、と言われるようになりました。
いつも静寂だった聖堂内は、皆が談笑したり子供がおやつを食べたりして、ざわざわする場所になりました。


外国に引っ越しましたが、普通のカトリック教会は日本よりももっとすごかった。
上のようなことに加えて、聖歌は強いリズムの世俗風で、毎週日曜はバンド伴奏で歌っていました。聖歌隊の人は、マイク片手に歌いながら、もう一方の手でご聖体を受け取っていました。
特別な祝日には、ミサの祭壇の周りで青年たちのダンスがありました。
大晦日には、聖堂内でカウントダウンがあり、皆で拍手喝采していました。
ミサの説教はその日の福音からの話ではなく、世俗的なジョークが話されていました。
私は専心して祈れなくなっていきました。
内省したいと思い黙想会に行けば、司祭の代わりに異語を話すという女性が自分語りをしていました。
もう、どうして良いやら分かりませんでした。


でも、ノブスオルドが極端な反面、外国には、カトリック教会の美しい伝統を守るグループの聖堂もありました。
最初は半信半疑で行きました。皆様と同じように、彼らがカルトであるとか、異端とか、聞かされていたからです。
それでも行き始めることができたのは、主人が強い意向を持ってくれたおかげです。

。。。。。。。

行ってみたら、そこには以前と同じ美しい教会がありました。
静寂が守られていました。
聖体拝領台も、座席の跪き台も、そのままでした。
皆ベールをかぶり、跪いて、主を礼拝していました。

子供の頃によく歌った懐かしいラテン語の聖歌が歌われていました。
天使ミサもそのままでした。
普通のカトリック聖歌も英語で同じメロディーの歌が歌われていました。
聖体降福式で、ご聖体に在すイエズス様を礼拝することができるのは、本当にありがたいことでした。

素晴らしい神父様がいらっしゃいました。
いつもスータンを着ておられました。
ミサの前には告解を聞いて下さいました。
聖なる、霊的糧となる、お説教をして下さいました。
信徒皆のために、いつも優しく気遣ってくださる方でした。
「司祭はもう一人のキリスト」という言葉を思い出させるような聖なる雰囲気のある方でした。

カルト、などという言葉がどこから出てくるのか私にはわかりません。
カトリック教会を根底から変えてしまいたい人々の悪意ではないかと思うほどです。


今はこの教会に行けて、とても幸いです。
現教皇様が、聖ピオ十世会にご理解を示してくださっていて良かったと思います。対話が続いているかぎり、希望があります。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
カトリックブログランキング- よろしければ、めでたしひとつと クリックひとつ お願いします。








2017年08月05日

雪の聖母マリアの祝日


雪の聖母マリア.jpg


 今日は、「雪の聖母大聖堂献堂」の祝日(一級大祝日)です。
初土曜日でもありますね。


 リベリオ教皇によって4世紀に建てられ、5世紀前半までかかって、増築、完成した 聖マリア大聖堂(マリアマジョーレ)を、記念する日です。

 雪の聖母大聖堂と呼ばれるのは、聖母マリアが、大聖堂を立てて欲しいと望まれたところに、真夏に雪を降らせて示された、という伝説があるからです。


 今日も、朝ミサと聖母のノヴェナに、行くことができました。感謝です。

 いろいろな聖母の祝日をお祝いできるのは、嬉しく、幸いなことですね。


雪の聖母の聖堂.jpg
定礎式で雪に鍬を入れるリベリオ教皇



ローマの聖マリア大聖堂.jpg
ローマの雪の聖母大聖堂


雪の聖母の聖堂3.jpg
雪の聖母大聖堂の内部 


雪の聖母の聖堂2.jpg
大聖堂の内部 天井と側廊



秋田の雪の聖母.jpg
>オマケ 秋田の雪のマリア様(^^)


にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
カトリックブログランキング- よろしければ、めでたしひとつと クリックひとつ お願いします。












2017年06月16日

いのちがいちばん! 「もう一人」運動はいかがですか?



マーチフォーライフ2.jpg
マーチフォーライフ2016(舟木撮影)より
どこかでお見かけしたような方も笑顔で参加しておられますね
 


 プロライフは、カトリック信者にとっては当然のことです。
 昔は、「カトリックの子だくさん」などと、一般にもよく言われていました。長崎あたりでは、司教様が「まぁ、子供5人持って親として一人前」とか、おっしゃっていたそうです。

 ところが、最近は、カトリックでも「子だくさん」どころか、平気で堕胎も避妊も 公に容認している有様です。(両方とも、霊魂から聖寵を失わせる「大罪」です。)
 私の友人なども、「二人で充分!もう縛ってもらっちゃったわ」などと平気で言っています。私は、この「縛ってもらった」というのが何かよくわからないのですが、子供ができないようにしたそうです。
 そこですぐに、「それは大罪よ、わかっているの?」と、言えない自分が情けない。勇気が無い、真実を告げる本当の愛が無いんですね、きっと。
 
 カトリック系の掲示板でも、以前、「もともと教会は、弱い立場の人の堕胎には寛大だった = 容認していた」(*1)という主旨の、とんでもない意見が、もっともらしく出た時に、皆が一斉に反対すべきなのに、誰も何も言わなくて残念に思いました。コムズカシイ教義的議論の時は、堂々と意見するような知識溢れる方々も、ほとんどスルーしていました。
「堕胎は殺人の大罪」など、アタリマエすぎて言う必要もない、と思われたのか、アタリマエすぎて議論しても面白くない、と思われたのか。。。残念です。

 でも、こういった「教会の教えに明らかに反する意見」が、「カトリック」を謳う掲示板(あるいはフェイスブック、などなど)で出た時は、管理人はもちろん、それを読んだ参加している信徒たちも、ただ一言でも反対意見を述べる義務があるのではないか、と思うのです。
 多くのカトリックの人々も、もはや正しいカトリックの教えを知らないのかもしれませんが。

「1。人間の受精卵の性格とアイデンティティーを考えた場合、人間の受精卵に対してどのような尊重を払うべきか。
人間は、その存在の最初の瞬間から人間として尊重されるべきである。」
(生命のはじまりに関する教書ー教皇庁教理省 p。23)

「519。婚姻の第一の目的は、天主の御定めにより、子を挙げることでありますから、避妊を計るような行為は婚姻の目的に背く甚だしい大罪であります」
(公教要理 ドンボスコ社 p。219)



 ところで、最近になって、伝統的なカトリックのグループで、プロライフ(命を守る)活動が増えているようです。すごく良いこと、そして本当に大事なことと思います。

 新しく素晴らしいブログが始まりました。
リンク先http://blog.goo.ne.jp/fatimanoseibo

 マーチフォーライフへの参加者も増えたようです。
 今年は7月17日にあります。応援しています。


マーチフォーライフ.jpg




 マザーテレサは、未婚の女性たちに、「堕胎せず生む勇気を持ってください」と、おっしゃっていました。日本での最初の活動の一つは、やむない事情で妊娠したシングルマザーを保護し助けることでした。

しかし、今の日本の場合、むしろ既婚の女性たちにも、そう言いたい!

経済的に苦しくなるかもしれません。
親族に、反対されるかもしれません。

本当に、世の風潮とはおかしなもので、
年取って授かった尊い子供を、「恥かっき子」などと言って蔑む。
そのくせ、倫理に反することは、「男の甲斐性」などと言って持ち上げる。

このような勝手なことを言う世相に負けないで、子供を守ってほしい、と思います。
小さな命を守ってあげられるのは、お母さんとお父さんしかいないのですから。

子供の命を守る両親には、必ず大きな祝福があるでしょう。
「見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。
壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。
矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。」
(詩篇127・3〜5)


「そんなこと言ったって、そう子沢山というワケにもいかない」と、思われるかもしれません。でも、まずとにかくこの一人、お母さんのお腹にいる「この子」を受け入れてほしい、と願います。

 カトリックの家庭だけでなく、日本のすべての家族のために「もう一人運動」と思って祈っています。
 各家庭もう一人ずつだけでも、どれほど多くの命が救われることか。それが日本にとって、どんなに大きな祝福となることか。

 すべての罪なき胎児の御母 聖マリア、我らのために祈り給え。
 アーメン。なれかし。
 


(*1)極端なケース、例えば、カトリックでない配偶者に堕胎を強制され、暴力を振るわれるような場合、その立場に同情し、罪ではない形で助けます。が、罪の容認はありません。
 「仕方ない、殺しなさい」はありえないし、
 「仕方ない、踏み絵を踏みなさい」はありえないのです。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
カトリックブログランキング- よろしければ、めでたしひとつと クリックひとつ お願いします。








2017年02月23日

「聖書正典」を故意に軽視するものは破門という深刻な問題について


 カトリック教会が、聖書の正典目録に入れる書物を区別する基準は、「聖霊の神感」です。したがって、聖霊の神感を受けた書として認められたものは、正典目録(カノン)に加えられ、「カタニコイ」(正典書)と呼ばれました。
 聖霊の神感を受けた書物だといううわさがあっても、実際上、その保証のないものは、正典書として認められず、後に「外典書」と名づけられました。

。。。。

 聖書正典の中で、最後に書かれたのは、ヨハネの福音書 / ヨハネの手紙で、1世紀末(西暦90〜100年)頃と言われています。
 聖書の正典目録が完成したのは、かなり時代を下ってからのことですが、その後は決してブレることなく、一貫して73書の伝統的なカトリック教会の聖書を世に示し続けています。


 各時代に、教皇書簡や公会議などで、度々、聖書正典目録は再確認されています。
 その中から、公会議の宣言文を数例、ご紹介します。

。。。。。。

第3カタルゴ教会会議(397年)
「正典目録にあるもの以外は、教会内で聖書として読んではならない。正典は次のものである。」

第1トレド教会会議(400年と447年)
「カトリック教会が認めている以外の聖書を権威あるものとして敬うべきだと信じるものは排斥(破門)される。」

フィレンツェ公会議(1442年)
「旧約および新約聖書、すなわち律法と予言と福音の作者は、唯一の同じ神であると宣言する。事実、旧新約両聖書の聖なる人々は、同じ聖霊の神感によって語ったのである。次の目録に載せた書を受け入れ、そして尊敬する。」


いずれも、宣言文の後に、カトリックの伝統的な「聖書目録」が載せられています。
正典目録はコチラ↓
カトリック教会の真の聖書とは?
http://akitadiary.seesaa.net/article/446207315.html

。。。。。。。。。。。

 16世紀になり、プロテスタントが発生すると、彼らはカトリック教会に反対し、以前に何度も排斥された異端説を持ち出すなどして、旧約及び新約聖書の一部分を正典と認めないと主張しました。

 旧約聖書では、トビアの書、ユディットの書、知恵の書、集会の書、バルクの書、マカべの書前後の7書全体と、エステルの書、ダニエルの書の2書の一部分で、それらを「外典書」(聖霊の神感のないもの)と呼ぶようになりました。
 また、それまで、カトリック教会が「外典書」としていたものは、上記のものと区別して「偽典」と呼ぶようになりました。

 新約聖書では、ヘブライ人への手紙、ヤコボの手紙、ユダの手紙、ペトロの第二の手紙、ヨハネの第二第三の手紙、ヨハネの黙示禄などが、プロテスタントの一部に反対され外されたそうですが、議論ののち再び正典と認めることになったそうです。 特に、マルティン・ルターが「ヨハネの黙示録」を、正典と認められなかったことは有名な話ですが、彼の後継者によって聖書に戻されました。


 カトリックでは、プロテスタントとの議論のために、彼らが正典と認めないことにしたこれらの部分を、便宜上「第二正典書」と呼び、それ以外のものを「原正典書」(あるいは第一正典書)と、呼ぶようになりました。

 しかし、第二正典と呼ばれた部分が原正典より劣るということではなく、同等に尊ぶべきものと教えています。カトリックの聖書の目次などでも、差別はありません。聖書正典のための承認が遅かったとしても、「聖霊の神感」によって書かれたことに違いはなく、人間の判断に時間がかかったということです。


。。。。。。。。。。。

 そのような混乱した状況下で、カトリック教会は、この問題を決定的に解決し、聖書の正典をはっきりと再確認するために、トレント公会議1546年の第四総会で、聖書と使徒の伝承に基づいて、以下の宣言を出しました。

 「聖霊によって、合法的に召集された聖なるトレント公会議は、使徒的座(=教皇座)の三人の使節の指導のもとに行われ、次の目的を常に目指している。すなわち、すべての誤謬を取り除き、教会の中に福音の純粋性を保存する目的である。
 福音はその昔、予言者によって聖書の中に約束され、まず神の子イエズス・キリスト自身の口によって公布され、次にその使徒たちに、すべての救いの真理と道徳律の源泉として「すべての被造物に」(マタイ28・19以下、マルコ16・15)伝えるように命じられたものである。
 この真理と規律は、書かれた書物と、書かれていない伝承とに含まれている。
 伝承は、使徒たちがキリスト自身の口から受け継ぎ、または聖霊の神感によって、手から手へ渡すようにして、使徒たちから私たちに伝えられたものである。私たちは、正統派の教父たちの模範に従って、旧約と新約のすべての書物を受け入れ、尊敬する。それは、唯一の神が両聖書の著者だからである。
 また同じように、キリストによって口授され、聖霊が書き取らせ、カトリック教会の中に受け継がれ、保存されている信仰と道徳に関する伝承を、同じ敬虔の情と尊敬の心をもって受け入れ、尊ぶものである。
 だれひとりとして疑う者の無いように、この公会議が認めた聖書の目録をこの教令の中に書き記すものである。聖書の目録は次の通りである。」


 聖書の目録をのべてから、トレント公会議は、続ける。

 正典目録はコチラ↓
http://akitadiary.seesaa.net/article/446207315.html


「以上の書物を、カトリック教会において普通に読まれている古代ラテン語訳ヴルガダ版に従って、全部を残らず そのすべての部分をもって、正典に属する聖書として受け入れなかったり、上に説明した伝承を、知りながら故意に軽視したりする者は排斥(破門)される。」
〔トレント公会議 DENZ. 1501、1504〕

。。。。。。。。。

 これによって、全く疑いようもなく聖書正典は確認され、宣言されたのです。

.......................................


 ところが、これに反する動きが1960年ごろから起こり始めました。共同訳聖書を作る動きです。


 共同訳聖書は、1966年にプロテスタントの聖書協会世界連盟とローマの教皇庁キリスト教一致推進事務局とが合意して「標準原則」として指針が示されました。が、この指針は、プロテスタント側が優先され、危険な妥協が潜んでいる、とデルコル神父様は警告していました。事務局は正式な聖省ではないし、教会の方針を尊重しないならば権威が無いのです。
 
 日本では、1970年頃に共同訳聖書の翻訳が始まりました。

 出来上がったものは、プロテスタントの慣例を優先させたものでした。いわゆる「第二正典書」と呼ばれる部分を、カトリックの聖書として本来あるべき位置から全て抜き出して、まとめて、「続編」として旧約の最後に付け足しのように載せたのです。

 新共同訳聖書は、さらに悪く、カトリック教会が明らかに「外典書」とした書物、そしてプロテスタントが「偽典」とまで呼ぶ書物を、あたかも「続編」の一部かのように加えてあるのです。

 これについての注釈は、別の場所、しかも巻末の誰も見ないような場所に書かれているだけです。この「注釈」を見損なって、本文そのまま「聖書」と信じてしまえば、異端として「排斥される(破門される)」というほど信仰に反したものであるのに、これが推奨され、多くの司祭、修道者、一般信徒に読ませているのが、日本のカトリック教会の現在の状況なのです。


 聖書の日本語訳に長年関わられ、旧新約聖書の翻訳で文化功労賞さえも受けられたデルコル神父様の義憤の声をお聞きください。

。。。。。。。。。。。
(引用ココから)

新共同訳の立場 (続編と外典書)

さて、新共同訳(聖書)では、どうなっているのだろうか?

 第二正典の書物、またはその部分を、第一正典の書物から別にして、「続編」として第一正典の次に置いたことは、トレント公会議の決定に合わないというべきである。
 また、「続編」の最後の三つとして、確実に外典書(偽典)であるエズラ記第三と第四、そしてマナッセの祈りを同程度に加えたのは、なおさらトレント公会議とその以前のすべての公文書を無視したものである。このように、何の区別もなしに、何の注もなしに、何もことわらないで(*カトリックが正典と認めないものを正典であるかのように)加えたのは、聖書と聖書を忠実に守る使命を受けているカトリック教会とに対するこの上もない侮辱である。

 新共同訳聖書の巻末にある「付録」(6ページ)には、この三書について、「いずれもカトリック教会では正典の中に数えられていない」と言っているが、それなのに、なぜ他の続編と一緒に置いているのか? 巻末の付録のことばを、だれが読むのか? わたしは、何人かの聖職者に聞いてみたが、その付録があることにさえ気がついていなかったそうである。

 新共同訳のこの位置づけは誤解を招くものである。 
 おまけに、「続編」とその最後の三つの外典書が入っているのは、新共同訳のカトリック用の版だけで、プロテスタント用の版には入っていない。

 日本の一般信徒も聖職者もだまされて、あの三つの外典書(偽典)は本当の聖書であるかのように考えるようになり、いわゆる第二正典書は他の正典書に劣るものと考えるようになる危険がある。


 また、このやり方は、聖書とカトリック教会とに対するこの上もない侮辱である、と私は先に言った。カトリック教会が、公会議、教会会議、諸教皇の教令などによって、疑えないほど明白に自分の信仰を宣言したにもかかわらず、それを全部無視しているからである。

 新共同訳に協力したカトリック側のメンバーたちは、こうして、教導権の確かな教えに背き、カトリック教会を裏切ったというべきである。


ご存知ですかシリーズ35 「神のみことば その啓示と伝達」 
デルコル神父著 世のひかり社1989年6月29日発行 30〜32ページより引用


。。。。。。。。。。。。。。

参考文献

1。口語訳 新約旧約 聖書 ドン・ボスコ社発行 (全聖書序論、各書の解説等)

2。ご存知ですかシリーズ35 「神のみことば その啓示と伝達」 
  デルコル神父著 世のひかり社 1989年発行

3。公教要理

*。文献によって、日本語の翻訳の言葉が、「聖霊の神感」「聖霊の霊感」「霊感」などと違いがあるのですが、同義語と思われます。ここでは、「聖霊の神感」で統一しました。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
カトリックブログランキング- よろしければ、めでたしひとつと クリックひとつ お願いします。


2017年01月26日

「聖書の何たるか」を理解する

 
聖書と教皇ベネディクト十六世.jpg


 「聖書」についてのカトリック教会の基本的な教えが、分かりやすくまとめられた部分を、全聖書序論より引用してご紹介したいと思います。
 聖書の聖句を黙想することも大事ですが、まず、
「聖書の何たるか」を理解するよう努めることも、さらに大事と思います。

 下記の内容は、「公教要理」の聖書についての部分と同様ですが、さらに詳しく説明されているので、参考になるかと思います。
 ここで、「霊感」と言われているものは、公教要理で「聖霊の神感」と言われているものと同義です。
(公教要理の該当箇所は、一番下に載せますのでご参照ください。)

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


4福音記者.jpg



(引用ココから)


霊感

 聖書の本は、人間の本ではなく、神の本である。それらの本を書いた第一の著者は、神だからである。
 これらの本を書いた人は、「霊感」とよばれる神の特別な保護と指導とをうけて、書きあげた。霊感についての、この教義は、多かれ少なかれ聖書の本のいろいろなところに、暗示されている。(とくに、ティモテオ後3・16、ペトロ後1・20−21)。教会の教父と博士たちも、そのことを、はっきりと教えており、カトリック教会も、それを信仰の教義と定めている。

 この教義によると、「霊感」は、聖書の本を書いた人間に対しておこなわれる神の特別な保護と援助である。これによって聖霊は、「超自然の力によって、かれら(聖書著者)に、書くようにすすめ、うごかし、かれらが書いているあいだには、神のご命令になるすべてのことを、そして、そのことだけを、正しく考え、忠実に書きしるしたいとのぞませる。さらに、あやまりない真理を、適当に表現するように、かれらを保護される」(”プロヴィデンティッシムス” 回勅#1893年渙発)。

 これによると、聖書著者にたいする神の御働きは、三つに分けて考えられる。

1。聖書著者が「正しく知る」ことのできるように、その知恵を照らす(これを知恵の照明という)。
2。かれらに、「忠実に書く」のぞみを起こさせるように、かれらの意思力に働きかける(これを意思の発動という)。
3。それを「あやまりなく正しく」しるすように、書く場合に保護する(これを記述の保護という)。

 しかし、著者である人は、「霊感をうけて」神の口述によって書く単なる書き写し手だと考えてはならない。あるいは、意識なしに、虚脱状態で書いていたと考えるのも、あやまりである。
 著者である人間は、完全に自分の自由と、個性と、教養とを保ちつつ、しかも、神の干渉をうけて、超自然の世界にあげられる。こうして、個々の本の思索と記述との、人間的な、自由な道具となるのが、著者である人間である。

 そのために、聖書の各本と各部分との第一の著者は、神であり、手段的な道具的な著者として、人間をおくわけである。人間としての著者の、その文体や性格や教養やそういったものを研究することも、したがって正しいわけである。霊感をうけていても著者の人間的な個性は残されて、それが完全に表現されているからである。

 かれらの著作に、あやまりがないという点は、「霊感」の保護のためであるといってよい。実に、神が聖書の本の第一の著者であるのなら、その本にしるされているすべての宣言は、神ご自身の宣言であるわけである。真理そのものである神は、あやまちをすることも、他のものだますこともありえないのであるから、霊感をうけてしるされている本は、絶対に、あやまりのないものだと考えなければならない。
 「霊感」をうけてしるされたものではあっても、人間として、人間の表現を用いている人間の著者のほうは、比喩を用いたり、自然現象をしるすために、当時の表現を用いたりしているが、それはゆるされていることである。そういう表現は、比喩として解釈するか、あるいは科学的な事実ではなくて、単に自然現象の記述として解釈しなければならない。たとえば、「神の怒り」、あるいは、「後悔」などが、聖書に出てくるが、それは、比喩的な言い方である。あるいは、「太陽が昇る」、「日が暮れる」というのは、一般の人の用いていた言い方である。

 また注意すべきは、現在のある聖書テキストの中にあるあやまりは、長い世紀にわたって原文を書き写し書き写ししてきたときの写しあやまりか、訳のあやまりである。

 「霊感」の教義を教えて、保証しているのは、カトリック教会である。カトリック教会は、この点について、昔のユダヤの教えにも基づいている。

 カトリック教会の権威を否定したプロテスタントは、聖書が霊感によるものであることを証明し、あるいは、認めるために、各時代にわたって、カトリック教会のこの教導権にかわるものを見つけようとしたが、結局は失敗し、現在は、その点について放置されている状態である。

「口語訳 旧約新約聖書」バルバロ/デル・コル訳(ドン・ボスコ社1964年発行) 
全聖書序論 10〜12ページより引用



。。。。。。。


聖書著者3.jpg

四福音史家


公教要理 第一部 第二課 〔信仰とその源〕より

8 天主の啓示し給うた事柄を、人々に教えるのは誰ですか。
  天主の啓示し給うた事柄を、人々に教えるのは、公教会であります。
  「汝等往きて万民に教えよ」(マテオ 28-19)

9 公教会が教える天主の啓示は、何に含まれていますか。
  公教会が教える天主の啓示は、聖書と聖伝との中に含まれています。
   聖書と聖伝とを信仰の二つの源(みなもと)と申します。そしてこれらは天主の特別の御助によって、誤りなく、公教会に保存されております。

10  聖書とは何でありますか。
聖書とは、聖霊の神感によって、天主の御言葉を書きしるした書物であります。
   聖霊の神感とは、天主の超自然の御助によって、一、聖書記者に筆をとる心を起させ、二,内容を示し、三,書く時に誤りがないように導くことであります。

公教要理の全文はコチラ
http://www.d-b.ne.jp/mikami/catech.htm#02



にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
カトリックブログランキング- よろしければ、めでたしひとつと クリックひとつ お願いします。




タグクラウド