2010年01月13日

聖 母 マ リ ア の 共 贖 性(5)(最終回)

聖 母 マ リ ア の 共 贖(5)(最終回)  トーマス安田貞治

 聖母マリアの共贖性を 結論的に言えば つぎのように あげられるので 順を追って見ましょう。

(1)人類の贖い主であるイエズス・キリストは、自分の人性(肉体)を全く一人の女、マリアから受け取って生まれ、その女は終生童貞(処女)の身分であって、キリストには肉体上の父はありませんから、1人の女を全面的に親としてこの世に入ってきたのである。イエズス・キリストの人性に対する 神から与えられた親権の所有者を問えば、神の父権と ただマリアの母権しかなかった。聖母マリアは神の子を受胎して産んだが、彼女の母権は 両親の権利をも完全に含んでいた。そのために 十字架の贖い主を、母親の権利の立場から、贖い主の献げに完全に同意して、天父に献げたのであって、それが共贖の深い意義となる。聖母以外には誰も、このような献げをする立場にはないのである。

(2)マリアの人性は、イエズス・キリストの贖いの効果を、神の計画によって先取りにして、無原罪の宿りの恵みを受けて、神の子の母となった。彼女は、キリストの人類の罪の贖いを受けて 将来救われる神の国の民の第1号となった。キリストの神秘体のメンバーとして新しく生まれてくる信者たち すべての母となる必要があった。キリストの神秘体である教会の頭、すなわち贖い主であるキリストを先ず産んで、救われるべき信者によって構成される神秘体の肢体をも、神秘的に世の終わりまで産むことになった。
“母”とは『出産の苦しみを味わった者』という意味であり、聖母がカルワリオで、天父に捧げた我が子の奉献への同意の苦しみは、神秘的な意味において、すべての信者の母となるための出産の苦しみだったのである。

 この真理は 創世記と黙示録に啓示せられているので その箇所を引いてみます。
 「神は女に向かって言われた。お前の孕みの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む」(創3・16) これは人祖エワに対しての言葉であったが、新しいエワなる聖母マリアの共贖の苦しみを同時に指して、神秘体の産みの苦しみを啓示している。
 また「女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのために叫んでいた」(黙12・2)とあるが、この箇所は神の子イエズス・キリストを産むための苦しみではなく、神秘体のメンバーとなるべきキリスト信者を産むための苦しみと解されるべきである。それは贖い主に協力して、聖母が捧げた共贖の苦しみの真理を啓示したものと受けとるべきである。

(3)マリアの童貞性は、他の男性との結合がなく、完全に神に献げられた童貞性であった。「主は御身と共にまします」と唱えられる童貞性であった。神秘体の頭であるキリストを男によらずして、聖霊の単独な働きによって、宿し産むのであった。神秘体の肢体となるべきキリスト信者を「水と聖霊によって新たに生れなければ誰も神の国に入れない」との洗礼の秘跡を通して、マリアはキリストに贖われた信者の母となる。

(4)聖母の信者への愛は、キリストの贖いの効果を受けてキリストに結ばれたすべての信者を、マリア自身が自分を愛させるために向わせる愛ではなく、すべてキリストへの愛に向けさせる母性的愛であり、主に献げ尽した童貞の愛である。
 イエズスは言われた。「わたしの母、わたしの兄弟とは神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8・21)聖母マリアの母性的愛はすべて神の言葉を守る人びとのためであったので、神の言葉を守らない人には適用することがない。

(5)神のみ言葉が槍として、十字架に釘づけられたイエズスの心臓をつき刺したことが聖書にのべられている。そのことがイエズスの完全な人類の罪の贖いの完成を示している。
 聖母マリアの心臓はこれを目撃して、彼女に対する神のみ言葉が剣として、彼女の心臓を同時につき刺したのである。それは単的な表徴であるが、マリアの共贖性と苦しみを表わすものである。
 今日イエズスの聖心とマリアの聖心を同一の水平線上に表わした絵が見られるが、イエズスの聖心とマリア聖心が同じレベルの価値であろうか。如何でしょうか。

(6)イエズス・キリストの贖いは、アブラハムの信仰に基づく我が子イザアクの献げの試みの完成である。神の犠牲として、父アブラハムより献げられるイザアクは、人類の罪を贖うために献げられるキリストの前じるしとなっている。イザアクの人性は父アブラハムと母サラの両親の所有権に託せられていた。神の掟は「なんじ父母を敬うべし」とある。
 アブラハムは 神の言葉によって、息子イザアクをモリヤの山の上に献げることになったが、彼は信仰一筋に献げようとして、その深い理由も分らず、息子と妻には黙っていたようである。両親の権利からすれば、サラも当然、同様に同意して献げるべきであった。イザアクの奉献は、イザアク自身も同意すべきであった。事実、彼は、自分こそいけにえにされようとしていると悟った時、心で同意したのであろう。しかし神のはからいによって、突然、アブラハムはイザアクの奉献を制止され、その身代わりとして子羊が与えられたことが聖書に銘記されている。
 イザアクの献げは死に至らず、彼に新しい生命をもたらした。すなわち彼は生き返ったのである。この出来事は、イエズス・キリストが、人類の罪を贖った表象として述べられている。息子を与え返されたアブラハムは、イザアクをサラのもとに連れ返った。この出来事は、キリストに贖われた信者たちが、キリストの母に属するものとして、聖母マリアのもとに帰ることを意味しており、イザアクは信者たちを表象しているようだ。
 モリヤの山では、サラがイザアクの捧げに同意していなかったため、アブラハムの信仰による献げも、両親の同意を要求する神の正義の立場からは、片手落ちの不完全な捧げとなった。しかしカルワリオでは、マリアは母権の立場から同意して、御子を失う苦しみを神にささげた。それ故、イエズスとマリア両者の同意が揃い、神の正義の要求を満たす完全な献げとなったのである。

 信者は人生の旅路において、聖母マリアの共贖の苦しみにならって、それを模範として「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たす」(コロサイ1・24)と示されているごとく、神秘体である教会の中に、苦しみをもって生きることになる。キリストの人性がこの世の苦しみの中に、神性をもって生きたように、わたしたちも苦しみの中に神性に参加するのであると教えている。
 聖母像の101回の涙が、聖母マリアの共贖の真理を分りやすい方法で啓示したことに意義がある。姉妹笹川カツ子に示された他のメッセージは、このことの前準備であった。
 この秋田の聖母像の101回の涙が、聖母マリアの共贖の教義と深い関係があるので、皆さまの信仰のうちに101回の涙によって、その意義がうら打ちされた聖母の奉献の苦しみを、一人でも多くの読者が味わうことを望んでいます。
最後に神秘体の兄弟姉妹の皆様のご親切に感謝をしてお礼を申しあげます。


紀元2000年 9月15日 聖母マリアの御悲しみの祝日に


<終>
 
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編集後記

 この論文の掲載を始める少し前に、ある聖職者の方から、メールをいただきました。

 それには、この安田神父様の論文ばかりでなく、「聖母マリア像の涙」の前身であった、「秋田の聖母マリア」の ほぼ全文をタイプしたものが添付されていました。この思いがけないご親切に、ここで、心からの感謝を表明いたしたいと思います。本当にありがとうございました。
 このブログを陰で支えてくださる方々、お祈り下さる方々、読んで下さる方々にも、心から感謝申し上げます。
 
 つたないながら、皆様のご意向のために、心をあわせてお祈りいたしております。

テレジア



日本の奇跡 聖母マリア像の涙―秋田のメッセージ

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  • 作者: 安田 貞治
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  • 発売日: 2001/10
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奇跡と涙―続・秋田の聖母マリア

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2010年01月12日

聖 母 マ リ ア の 共 贖 性(4)

聖 母 マ リ ア の 共 贖(4)  トーマス安田貞治

 聖ベルナルドの説教にも その真理を表わしている例がある。
「童貞マリアが 殉教の苦しみを味わったことについて、シメオンの預言がある。老人シメオンが、幼な子イエズスについて、『この子は逆らいを受けるしるしである。』と言って、次に母マリアに対して、『あなた自身も剣で心を貫かれます。』と言った。聖母よ、ローマ兵が主の脇腹を槍で貫いた時、その槍は御身の魂を 刺し貫くこと無くして、御子の体を刺すことはできなかった。イエズスが息を引き取られた後、残酷な槍が主の脇腹を容赦なく突き刺したが、亡くなった方が刺されても少しも痛みを感じません。しかし、この槍はあなたの魂を確かに刺し貫きました。あなたは殉教者以上のものであると、わたしが言うのはふさわしいことである。」

 十字架に釘づけられたわが子イエズスの姿を見て、聖母マリアは 如何ほど涙を流されたことであろう。今日わたしたちには想像もつかぬほどである。
 秋田の聖母像の涙が、2千年前の神の母なるマリアが現実的に涙を流されて苦しんだことを表すものだとすれば、神のはかり知れない思召しによって奇跡が行なわれたことになる。それが聖マリアの共贖の苦しみを捧げるしるしとすれば、深い意義がある。創世記3章15節と深い関係がつけられたことは、人間のはかり知れない天啓である。
 また新約聖書によれば「イエズスのそばに その母と姉妹、クロバの妻マリアと マグダラのマリアが 立っていた」(ヨハネ19・25)2人のマリアが 母のマリアと同様に 涙を流して立っていたが、この2人の婦人の涙は 単なる人間的同情の涙であって、意味深いものではなかった。母親の聖マリアの涙は、神の子の母として、贖い主の母として、人類の罪を贖う神の子、わが子を天父に残りなく献げてその痛みを心に感じての涙であった。その表白の涙であったとすれば、他の2人の婦人たちの涙とは比較にならない涙であった。それこそ共贖の苦しみの涙であった。聖母マリアが 自らの産んだまことの御子を十字架に釘付けにして、御父に献げることは、自分自身の体を十字架に釘付けにして献げることよりも、心にはもっと痛さを感じて、御子の身代りになることを望んだであろう。今日、聖母像を介して表された聖マリアの共贖の苦しみの涙に意義があるのか、ないのかそれを吟味して見る必要がある。

 第2バチカン公会議の終了と共に、エキュメニカル運動が展開されて、他宗教との対話が始まっている。他宗教にも真理の一端があり、道徳論として正しいものが多数含まれていると言う。それらに対して、三位一体の神の救いの真理、すなわち、イエズス・キリストの十字架の贖罪の真理が、教義、ドグマとして、他宗教には絶対に存在していません。贖罪の教義は、唯一カトリック教会において真理の光を放っているのである。人類の罪を、正義なる神の御前で贖ったキリストの贖罪の真理は、救いに関して絶対的必要欠くからざる価値を有している。この価値を見失っては、カトリックのドグマ、教義が総崩れになる危険性がある。この価値を見失えば、カトリックも世界宗派の一派にすぎなくなる。

 今日、偶然にも聖マリアの共贖の教義が論議の標的となって、キリストの贖罪の真理が見直しになり、強調されるため、新たに聖マリアの共贖の真理が教義として、ドグマの発表せられることは、世界の人びとの救いのためである。キリストの贖罪と聖マリアの共贖の二つの真理が、教義として発表され、公けにキリストの神秘体である教会が、神の国の完成を見るための準備が完了したことになる。三位一体の神が、混とんとした今日の世界の思想において、聖母像の涙の奇跡を示して、キリストの贖罪と共にマリアの共贖の真理を、公けに誰でも、一般信徒にもたやすく理解されるように仕向けたのであろう。創世記の聖書の言葉を用いて、聖母像の101回の涙を説明したことは驚くべきことであり、ルルドの聖母出現をもって、無原罪の真理を説いた価値に等しい。

(つづく)





日本の奇跡 聖母マリア像の涙―秋田のメッセージ

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2010年01月08日

聖 母 マ リ ア の 共 贖 性(3)

聖 母 マ リ ア の 共 贖(3)  トーマス安田貞治


 聖母マリアは 受胎告知からはじまって、十字架の死に至るまで 贖い主に対して、人間マリアの はしためとしての従順は、人知を超えた献身的愛であった。
 贖い主の協力者として 公けに表された聖書の最初の箇所は、母親の権利を行使して、救い主の誕生後四十日目に、律法に従って 天父に御子を捧げる犠牲の業を行われたことを、記した所がある。その時、預言者シメオンが現れて、母親のマリアに対して、カルワリオにおける、御子イエズスの マリアによる奉献の秘儀を示す言葉を言われた。「御覧なさい。この子は イスラエルの多くの人を 倒したり、立ち上がらせたりするために と定められています。あなた自身も 剣で心を刺し貫かれます。」(ルカ2・34)

 秋田の聖母像の涙は 101回をもって終わりになるが、それは1981年9月15日、午後2時頃のできごとであった。この日の目撃者は65名で、聖母の悲しみの記念日ということで、一同 深い感銘をうけた。わたしも目撃者一同もこれが最後の涙となることは露知らずにいた。
 その日から13日目の9月28日に、姉妹一同の聖体礼拝の念祷に入ったとき、姉妹アグネス笹川は 天使の訪れを霊的に感じ、彼女の前に光に包まれた立派な美しい聖書が現れ、創世記3章15節の数字が認められた。天使の声があり、聖母像の涙は この聖書の箇所に 深い関係があると前置きして、続いて「お涙の流されたこの101回の数字には 深い意味があります。1人の女によって 罪がこの世に入ってきたように、1人の女によって 救いの恵みがこの世に入ってきたことを、かたどるものです。数字の1と1の間には0があり、その0は、永遠から永遠にわたって存在する神を意味しています。はじめの1はエワを表し、終わりの1は聖母を表すものです。創世記3章15節を読みなさい。このことをあなたを導いておられる神父様に伝えなさい。」と指図して、同時に天使の声も聖書も消えてしまった」。

 人びとの一般の考え方によれば、現代の世相の罪の深さを反映し、悪しき事柄に関係づけて聖母の涙を解釈しようとしている。それは罪を防止する勧告の涙という解釈であるが、それは単なる人間的考えにすぎない。天使の言葉によって、はじめて聖母の涙の意味が解説されたのである。それが共贖の苦しみの涙、神の母としての涙であった。御子イエズス・キリストが十字架にかけられて、人類の罪を贖う姿を眺めて、神の子の母がそれに賛成し、母親の権利の立場に立って、御子の贖罪に全く同意して、神なる三位一体の御父に、御子のペルソナと共に同時に献げるのであった。その心痛のあまり、肉体の目から涙を流して耐え忍んだのである。秋田の聖母の涙は、凡そ2千年前の出来ごとの再現に外ならない。
 
 秋田の私的啓示の意義は、ベルナデッタ少女が、マッサビエルの洞窟で 無原罪の宿りの聖母の美しい姿を見たことに匹敵します。聖母の涙は至る処に流されていると、今日きくが、聖書をもって説明されたものは一つもない。秋田の101回の涙は聖書の言葉にうらづけられ、共贖の教義に結びつく預言として天啓的であり、超自然性を無視することができない。
 
 聖パウロの 新しいアダムについてのキリスト論的神学が ロマ書にのべられているが、聖母マリアの共贖性についても暗示していると考えられる。「1人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」(ロマ5・12)この言葉に続いて「恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって、多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら一人の人 イエズス.キリストの恵みによる賜物は、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません」(ロマ5・15−16)
 
 新しいアダム、キリストについてかくの如き真理が聖書にのべられているとすれば、新しいエワ、聖なる神の母が人類の救いのために果たした役割について のべられても当然なことです。アダムの罪が 最初のエワの罪に結びつけられていることは 疑う余地がない。贖い主であるキリストの救いの恵みが、新しいエワ、無原罪の宿りなる聖なるマリアに結びつけられて、この世に入ってきたことは明白である。
 姉妹アグネス笹川の天使のメッセージを、聖パウロの贖い主キリストについての言葉に置きかえて見ましょう。「1人の女によって罪がこの世に入ってきたように、1人の女によって救いの恵みがこの世に入ってきたことを意味する」ということになる。聖パウロは新しいアダム、贖い主であるキリストと、古いアダム、罪の人を比較しているが、アグネス笹川の天使のメッセージでは、罪の原因となった古きエワと救い主をこの世に産み出した新しいエワ、聖母マリアが比較対照になって、啓示されている。それは101回の涙がこの真理をつくものである。

(つづく)


日本の奇跡 聖母マリア像の涙―秋田のメッセージ
作者: 安田 貞治
出版社: エンデルレ書店
367〜370ページより引用




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2010年01月07日

「聖母マリアの共贖性」(2)

聖 母 マ リ ア の 共 贖(2)  トーマス安田貞治

 
 わたしは、秋田の聖母像の涙は、二千年前、救主イエズス・キリストが 世界人類の罪を贖う姿を十字架上に眺めて、聖母が涙を流したことを表現するものとしてみとめ、神の業の再現のしるしであると考えていた。その後、101回の涙のあとに、天使から 姉妹笹川アグネスにメッセージがあって、マリアの共贖性を表現するものであったと、客観的に知らされるのである。これは単なる私的啓示に外ならないが、明らかに教義、ドグマの決定に参与することになると思われる。教会における信仰の教義、ドグマの定義の権限は、あくまでも教導職権を持った教皇と司教たちにゆだねられているのであって、ひとりの信者がどんな不思議なしるしを受けても教導職を無視しては成り立たない。今日においても、教導職を無視して独走すれば、たやすく悪霊の支配下に入って滅びることになる。

 しかし、私的啓示だからと言って、すべて無視されるべきものでもない。大いに霊的に役立つ場合がある。聖パウロも予言の賜物を尊重しているが、ルルドの聖母出現はよき例であり、秋田の聖母像の涙も同様の価値を有していることになる。

 現教皇ヨハネ・パウロ2世が、聖母マリアの共贖性を教義、ドグマとして世界に発表する時、秋田の私的啓示が、ルルドの聖母出現と同じく世界の民に歓迎されるであろうと思う。
 なぜかと言えば、ルルドの洞窟に光り輝く聖母マリアの姿を 少女ベルナデッタが18回も見て、それが無原罪の宿りを表すものであることを教えられている。
 出現に先立つ四年前、既にこの教義がドグマとして教皇ピオ9世によって、世界に公布されていたが、一般信徒にはむずかしすぎて、理解されず、聖母の信仰を深めることがなく、信者たちの心への浸透性が欠けていた。その時、偶然かのように、ルルドの聖母出現の奇跡が起こり、この私的啓示をきっかけとして、全世界の教会に ルルドの聖母像が安置されたのを見ても分かるであろう。聖母マリアの無原罪の宿りの教義は、ルルドの出現があってこそ、一般信徒の心に 信仰の効果をもたらしたと言える。それがなければ、立派な教義、ドグマが発表されていても 無益になる恐れがあった。

 聖パウロは「私たちは それぞれの異なった賜物を持っていますが、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて、預言しなさい」(ローマ12・6)と言って 信仰の教義と 預言やメッセージの賜物を結び付け、両者の一致の大切さを教えている。同じように、無原罪の教義は、神により、ルルドの聖母出現の奇跡に結びつけられて 真実なることの証明になった。現教皇はまだ聖マリアの共贖性の教義を公的に発表してはいないが、回勅や説教などでほのめかしていることは、衆知の事実である。

 秋田における聖母像の101回の涙が、マリアの共贖の真理を表わすものだとすれば、世界各地の信者たちは、ルルドの出現と同様に、たやすく共贖性のむずかしい教義を受け入れて信じることができる。これまで聖母マリアの共贖の真理の解明は微妙で、神学的にも解釈が困難であった。この難解な真理を一般の信徒たちに きわめて分かりやすい方法で、神の子の母として表し、苦しんでイエズス・キリストの人類の罪の贖いの業に、共贖の協力をそそいで涙をもって参加されたことを表現したことは驚くべき啓示である。

 この際、キリストの人類の罪の贖いと マリアの共贖の立場を混同したり、キリストの贖いの不足を補うものとして誤解してはならない。キリストの贖罪の行為は そのまま完全であり、少しも欠けたところがない。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエズスただひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして、御自身を献げられました。」(テモテ(T)2・5−6)あくまでもキリストの贖罪行為と マリアの共贖の行為は、それぞれの異なった人格、ペルソナ的存在の立場から 考察が必要である。
 神の子たるキリスト自身が、神のペルソナとして、十字架上で、わが身を贖罪の犠牲として、天父に献げて苦しみに耐えている。それを仰ぎ見て母のマリアは全く心の献げの同意を示して、天父に彼を子羊のように捧げて、その心痛のあまり、人知を超えた苦痛の涙を流して、耐え忍んだことを表明した涙である。

(つづく)



日本の奇跡 聖母マリア像の涙―秋田のメッセージ

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2010年01月06日

「聖母マリアの共贖性」カトリック司祭.安田貞治神父様の論文

今日から、安田神父様の、論文の掲載を始めます。
「共贖者なる聖母マリア」という永遠の真理が、カトリック教会から 教義(ドグマ)として公に宣言される日が、すみやかに訪れますように。祈りをこめて。



聖 母 マ リ ア の 共 贖 性 (1)  ト−マス安田貞治


【本稿は1997年5月31日〜6月1日ローマに於ける第2回国際マリア神学会議が開催されたときの講演内容です。】

 会議の参加者は2人の枢機卿と53人の各国からの司教たちに加え、司祭、神学者、修道者、修道女、信徒たちを含め、総数200名ばかりであった。ローマの聖マリアの家(ドムス.マリエ)が会場であった。この会議の目的は聖マリアの共贖の教義の決定を、神の民の信仰の声の反映として推進することにあった。
 
 わたしは偶然かのように、主催者によって、講演者の1人として、次のタイトルで話すように依頼をうけて、出席した。与えられた演題は「秋田における聖マリアの共贖のメッセージと 教義の運動の関連性について」とあったので、おこがましくも わたしのかねてからの聖母の涙の意義についての意見を述べることに踏み切った。すべての講演は、同時通訳者たちによって、それぞれ、各国語に訳された。

 次の段落以降が私の講演である。この稿をあとがきとして用いたのは、奇跡として日本における聖母像の涙の意義を問うことにあったのです。




 秋田の聖体奉仕会の修道院の聖母像から、珍しくも101回の涙が流されて、それが医学的にも 人間の体液、涙であることが 法医学的に証明され、他の真正なる2つの奇跡があって、当事、現職の教区長であった ヨハネ.伊藤庄治郎司教と調査委員会投票の結果を経て、伊藤司教が、巡礼をカトリック信者に許可をしたので 現在も巡礼が続いている。

 最初の涙は1975年1月4日(土)に3度流されたことに始まる。最後の涙は1981年9月15日聖母の悲しみの記念日であって、総数101回の涙が、木像の乾からびたマリア像から流されたのである。この涙が流された数字には深い意味があるので、これが共贖のメッセージの鍵となるのである。わたしは偶然かのように、101回の聖母像の涙を ほぼ全回見た1人の司祭であり、二千年前の 聖母マリアの共贖の際に流した涙を 神が再現したものであると解釈している。

 はじめは聖母像の涙を見て、聖母が泣いていると単純に考えていたが、何が悲しくて泣いているのか、さっぱり分かりませんでした。聖母像から涙が流れる場合、わたしがどこにいても 呼ばれて現場に立ち寄り、集まった人びとと共に ロザリオの祈りの苦しみの玄義を一環唱えることにしていた。祈りが終わっても なお聖母像に涙が残っていた場合、脱脂綿で ていねいに拭き取り、年月日をつけて保管した。現在も有力な証拠品として、貴重な資料品として 保管されている。
 
 なぜ、聖母像から涙が流されたか、その原因や理由を知る者は1人もなく、わたしも理解することが出来ずにいた。ある人びとが先走って、現代の罪悪に結びつけて、解釈し勝ちであって、聖母マリアの 天国からの罪悪に対する警告の涙であると言いふらしているようであった。わたしは それらに対して批判的立場を取って同調することがなかった。天国における被昇天なさった喜びのマリアの態度ではありませんとしていた。今日いたる所で、マリア像の涙が報告されているが、それは本物の涙ではなく、大抵悪霊による偽物の涙として、わたしは受け取るようにしている。
 
(つづく)

(聖母マリア像の涙 安田貞治著 エンデルレ書店 361〜363ページより引用)





日本の奇跡 聖母マリア像の涙―秋田のメッセージ

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