2017年06月10日

聖母マリアは教会神秘体の「首」であるという伝統的なたとえ


御公現の聖母子.jpg


 天主なる神は、全知全能のお方です。

 主イエズスは、その全能の御力によって、成人した人間として空中に現れ、宣教を始めることも可能でした、もしそう望まれたならば。

 しかし、それでは、人類の一人となり、人類全ての罪を背負って犠牲となり、すべての人のための贖いを成すわけにはいかないでしょう。
 人類の誰とも、縁もゆかりも無いならば、人類の代表として罪を贖うことはできません。

 主イエズスが、キリスト、救い主となるためには、どうしても一人の母から生まれなければなりませんでした。そして、その母を通して、すべての人類と血の繫がっている真の人類の一員となったのです。

 このことは本当に偉大な奥義です。


 神学者スキレベークス司祭の著書の中に、

「キリストが神秘体の頭(かしら)であるなら、マリアは首である」

という、伝統的たとえの説明がありましたが、真に的を得た比喩だと思います。

 首は、頭ではありません。すべては頭から来るのです。
しかし、首がなければ、身体は頭と繫がっていることができません。
 首の骨、頸椎が潰されれば、脳から身体への連絡が絶たれた人は、ぐんにゃりと倒れて程なく死んでしまうのです。(*1)

 聖母マリアを失った信仰も、教会も、同じように命の無い、虚しいものになってしまうでしょう。


 救い主イエズス・キリストは、処女マリアから生まれ、幼子としてこの世に来られ、私たちに、天の命を与えて下さいました。

「しかして御言葉は人となり給い我らの内に住み給えり」

 この偉大な奥義が言い表される時、敬意と感謝のために跪くならば、全贖宥が受けられます。(*2)
 海外では、お告げの祈りの時、この部分で必ず跪きます。(日本では、祈り全文で 跪くようです。)


 また、ミサの使徒信経、ミサの最後の朗読ヨハネの福音書も、そのためにその部分で跪きます。(片膝を付く形です)

「聖霊によって、童貞なるマリアより生れ、人間となり給い。」
(Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria Virgine: ET HOMO FACTUS EST)



救い主の御母マリアに賛美と感謝。
天主の御母聖マリア、今も臨終の時も我らのために祈り給え。アーメン。


。。。。。。。。。。。

(*1)
首、上部頚椎にある延髄が生命維持に関わる呼吸、血管運動、心臓の中枢のほかに感覚神経、運動神経の通路になっている
http://online.sbcr.jp/2015/02/003924.html

http://specificbg.exblog.jp/11412098/


(*2)
贖宥については、第二バチカン公会議以後、いろいろと変更になっているようです。





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2017年05月20日

秋田巡礼2017の黙想。


この度の巡礼では、ファチマと秋田の違いを少し理解することができたような気がします。

講話のとき、祈りの時、聖歌を歌っている時、巡礼の間中に、いろいろと心に感じたことをまとめてみました。


秋田の聖母像.jpg


。。。。。

ファチマの聖母.jpg


 今年は、ファチマでの聖母出現の100周年です。

 ファチマでは、太陽が動き回り、落下して地表近くに来て、そしてまた戻る、という大きな奇跡がありました。

 秋田での 聖母像が涙を流された、という奇跡は、ファチマに比べると地味ですが、同じように、というより、むしろそれ以上に偉大な奇跡なのです。
なぜなら、それは、「本質的奇跡」(*1)と呼ばれるものだからです。
また、全世界で公認された御出現の中で、落涙現象を含むものは秋田だけなのだそうです。


 ファチマの奇跡は、人々を驚かせるような奇跡でした。太陽が回転した後、落下して来て人々がその熱を感じる程になった時は、大勢が痛悔し、教会の反対者たちは死ぬほど恐ろしい思いをしたそうです。
ファチマの奇跡は、信じない者たちの心を揺り動かし、改心を迫るようなものであったと思います。


 秋田の奇跡は、人々の心に語りかけるような奇跡でした。聖母マリア様の涙を見た人々の多くは、自分の至らなさを思い、よく信心に努めて、もっと信仰を深めるよう導かれました。
秋田の奇跡は、むしろ信じる人々のためのものであったように思われます。


 秋田の聖母像から流された、血、涙、汗 は、みな異なる血液型の「ヒト体液」でした。
 安田神父様がおっしゃるように、これは天主様の新しい創造の御業でありました。どこぞの借り物ではありません。
 ですが、信じない人々には、意味のないものに見えたようです。
 安田神父様は、以前、ある女子修道院長に、「秋田の聖母像の涙などは、一般の人びとが何か珍しいものに群がるように、好奇心をそそるのに役立つでしょう」と、なかば軽蔑的に言われたことがある、と、書かれていました。
 しかし、トリックで同じような事が簡単にできる、という事が、必ずしも小さな奇跡というわけではありません。



 秋田の聖母のメッセージにも、近い将来の大天罰の予言があります。
「火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。」「生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。」
というメッセージは、日本で与えられたので、これらことは日本でも起こるでしょう。


 先の第二次大戦でも、多くの人々が亡くなりました。
でも、ほとんどの生き残った人々は、「命だけは助かった」とか「生き延びれて運が良かった」と、喜んだものです。

 生き残った人々が死んだ人を羨むほどの苦難とはなんでしょう?

 現在は先の大戦時より、大量殺人兵器は遥かに進歩し多様化しております。
その中でも、死んだ人を羨むような苦しみを与えるのは、生物(細菌やウィルス)兵器による恐ろしい病気、化学兵器による無残な症状、核兵器による放射能汚染などではないでしょうか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/生物兵器
https://ja.wikipedia.org/wiki/化学兵器




 先の二つは、上層部だけは助かるように解毒剤や治療薬あるいは予防薬などが用意されているでしょうが、放射能汚染だけはどうにもならないので人類存亡の危機となるでしょう。

 保有していることを表明している国々の核兵器ばかりではなく、旧ソ連解体時に行方不明になったものを別の国あるいはテロリストが保有している可能性 とか、人工衛星には核兵器を搭載しないという国際条約が遵守されていない可能性 とか、期限切れの廃棄された大量の核弾頭が放置されている、とか、一般に出ている情報から考えても、いつ、どこで恐ろしい状況になるかわかりません。

http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51860326.html
http://www.rist.or.jp/atomica/data/pict/05/05010322/06.gif



 核兵器が使用され、連鎖的に多くの爆発が起こるようになれば、多くの地域での高い密度の放射能汚染は免れ得ないでしょう。
 放射能で、DNAが破壊され、髪も皮膚も再生されなくなった人間は、おそらく酷い苦しみの中でゆっくりと死んでいくしかないのです。医療は役に立たないでしょう。


https://matome.naver.jp/odai/2138155626159397101
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65743348.html



 このようなことは、まず日本で起こるかもしれません。
 日本民族は、天主なる神の「第二の選民」である可能性が高いので、そのDNAを破壊し絶滅させたいと、悪魔とその追随者たちは考えるだろうからです。
(これについては、後日、詳述します。)

 ここに、聖母が、「秋田のこの地を選んでお言葉を送られた」(天使の言葉)意味があるのではないでしょうか。
 日本は、世界で唯一、核兵器(原子爆弾2回)の投下を受けた国であるばかりでなく、今後も受ける危険が高いのです。

 しかし、秋田のこの地で、聖母マリアは「私に寄りすがるものは 助けられるでしょう。」と約束して下さいました。

 秋田の聖母の御出現を信じ、特に、聖母マリアが共贖者なることを信じ、寄り縋り、正しい信仰に留まる者が多ければ多いほど、日本民族は助けを受けるでしょう。

 天主は新しい創造を行い給い、人々のDNAを再生されるでしょう。
 これは、世界に対する印となるでしょう。

 昔、救い主イエズスが、中風の者に「あなたの罪は赦された」(マルコ2−5)とおっしゃり、その印として、その身体をも癒されたように、この度は、共贖者マリアが、人々を霊的に助ける印として、その身体をも助け給うでしょう。

 (しかし「良い人も悪い人と共に死ぬでしょう」とメッセージにあるように、善人が、すべて生き残るという意味ではありません。民の改心のために命をお捧げする人々があっても良いのです。)



 秋田での、最も重要でありながら、ほとんど知られていないメッセージ、
101回の涙の意味、

1人の女(エワ)によって滅びが、
1人の女(マリア)によって救いが、
この世界に訪れた、

と、いうことを 強調するために、聖母マリアは、母としての御助けと干渉を、ファチマ101周年に、始められるような気がしてなりません。


 そして、その御助けは、時の終わりが近づくにつれ、ますます大きなものとなるでしょう。

 終末の天罰について、黙示録には多くの記述がありますが、例えば、「獣の印を持つ者に、悪性の腫物ができた」などのように、終わりが近づくにつれ、その多くは悪に付き従う者たちに限定されていきます。
 


 聖母マリアは、良き子供たちのための艱難時の助けを示すために、秋田のメッセージと奇跡を与えて下さいました。
 聖母の子供たちは、何も心配する必要はありません。


秋田の聖母像2.jpg


 秋田の聖母の御出現は、ファチマのメッセージの完結、結末、解決として、最後の切り札として、信じる人々のために与えられました。

 聖母マリア像の涙は、小さく見えますが、創造主なる神のみが行える本質的な奇跡なのです。
 そしてこれは、将来の恐ろしい人類存亡の危機に際する決定的な御助けの前印でもあります。

 最後には聖母の汚れなき御心が勝利するでしょう。

 聖母がお望みになったように、愛する子供として信頼し祈りましょう。
 真の天主なる神の御前に、謙遜に跪き礼拝いたしましょう。
アーメン。なれかし。


。。。。。。。。

*1(安田神父様の著書「奇跡と涙」を参照し纏めました。)

神学者、聖トマスによると、奇跡は三種に分類される。
1。様式上の奇跡
  自然に起こりうる事柄だが、自然的手段の助けなしに起こること。(例 病人の治癒や、瞬時の物の移動など)

2。客体的奇跡
  通常、自然にはあり得ない事柄が、ある客体に起こること。(例 ナイムの青年やヤイロの娘の復活など)

3。本質的奇跡
  全く自然作用の能力によっては到達し得ない実体の全質変化が起こること。客体の本質を転換して、別種の本質とならしめること。(例 カナで水をブドウ酒に変化させたことなど)



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2017年01月12日

降誕節に聖家族の苦労を偲ぶ


epiphany-003.jpg


 商店街のクリスマスの飾りは取り払われて、一般にはクリスマスは終わったかのようですが、実はカトリック暦の降誕節は、まだまだ続いております。
最終日は、聖マリアの御潔めの祝日(2月2日)です。

御公現の祝日の後は、家では、馬小屋の飾りに三賢人を加えて、雰囲気を出しています。

降誕節の間、聖家族の御苦労に想いを馳せるのも良いと思います。


聖家族の旅.jpg



 ベトレヘムへの旅よりもエジプトへの逃避行はさらに厳しく、普通に考えて、乳児を連れた貧乏な若夫婦がベルサベ砂漠を越えてカイロまで、たどり着けるものではないように思われます。

「鳥が食べ物を運んできた」とか、
「オアシスで高いヤシの木が主の御前に屈んだのでココナッツの実が取れた」とか、
いろいろな逸話が残っているようですが、そのような奇跡でもないと、ラクダに備蓄食料や水を積んだキャラバン隊でもないのに、砂漠の横断はとても無理だということなのでしょう。


聖家族の旅の地図.png


黙想の助けになる部分を「神の都市」から、引用してみます。
ご参考になれば幸いです。


。。。。。。。。



エジプトへの逃避行 

 僅かな身の回りの物を箱に詰め、ロバの背に乗せ、真夜中を少し過ぎてから 聖家族は エジプトへ急ぎました。

 暗い静かな夜、聖マリアと聖ヨゼフは 信仰と希望に強められ、旅をしました。しかし、御子に対する愛情のため、色々なことが心配になりました。この長旅に何が起こるか、いつまでかかるか、エジプトでの生活はどうなるのか、見ず知らずの人たちとどうやって付き合うか、御子を育てるのに助けてもらえるか、それにしてもこの旅を御子がどうやって乗り切るかなど、見当もつかなかったのです。
 しかし、一万位の天使たちが人間の姿になって現れ、聖家族を元気づけました。

 ガザの町に着いて 二日間休みました。御母と御子を乗せたロバも 聖ヨゼフも 疲労困憊の極みに達したからです。そこで会った聖エリザベトの僕に、聖エリザベトに伝言する以外、誰にも自分たちの居所自分たちの居所を口外しないように言い含めました。
。。。
 聖マリアも聖ヨゼフも、自分たちの故郷や旅の目的について一言も話しませんでした。もしも一般の人たちに知られたら、ヘロデ王のスパイたちに注目されるかもしれなかったのです。

 ガザについて三日目、この聖なる巡礼者たちは エジプトに向け出発しました。まもなく、パレスチナの人の住める地帯を過ぎ、ベルサベの砂漠に入りました。ヘリオポリス、つまり現在のエジプトのカイロまで約270キロあります。砂漠を何日間も歩くのは辛いことですが、何も避難できる所がないのはもっと辛いです。色々なことが砂漠の旅の途中で起こりました。聖マリアも聖ヨゼフも 不平不満を言いませんでしたが、聖マリアは自分のことよりも もっと、御子と聖ヨゼフのことが気がかりになり、聖ヨゼフは 御子と聖マリアの苦難に対し 何もできないことが悲しくなりました。

 この270キロの砂漠の行程の間、大空と涯しない空間があるだけで、避難できるような所はありませんでした。この旅は二月、御潔めの日から第六日目に始まりました。
 砂漠の砂の上に座り、御母は御子を抱きかかえ、聖ヨゼフと一緒にガザから持ってきた備蓄食料をいただき、御子に哺乳しました。夜中、一万位の天使たちが人間の姿となって聖家族を守りました。


エジプトへの逃避行.jpg




 御子は 御自身の苦労を御母と聖ヨゼフの苦労に合わせ、永遠の御父に捧げました。御母にはそのことが判りました。御子の就寝中、御母は目覚めており、天使たちと話しました。
 聖ヨゼフは 箱を枕にして 砂の上に寝ました。

 翌日、旅している間に 残っていた少しばかりの果物とパンはじきに食べつくし、聖家族は空腹になり、とても困りました。夜の九時までは何とかなりましたが、食物なしにはもうこらえ切れなくなりました。
 食物を得る当ては全くありませんでしたので、御母はお願いしました、「永遠、偉大にして強力なる神、素晴らしく富める御身を祝し、感謝します。何の価値もない私、塵であり役立たずの私に 生命をくださり、私を生き永らえさせて下さることを感謝致します。何もお返しできないのに、お願いしたいことがあります。御身の御独り子のことをお考え下さい。御独り子を助けるため、私と夫の命を保つために必要な物をお与え下さい。」

 このお願いがもっと切実になるように、いと高き御方は自然が今まで以上に、過酷に聖家族をいじめることをお許しになりました。暴風と豪雨が聖家族を覆いましたが、御子は風雨に打たれ、泣き、寒くて震えました。心配な御母は、やっと被造物の女王としての力を発揮し、創造主なる御子に害を与えず、避難所と食物を与えるように命令し、自分だけにはどんなに辛く当たってもよいと申し渡しました。直ちに暴風雨は弱まりました。幼児イエズスは、天使たちに最愛の御母を守るよう命じました。

天使たちは、人となった神、御母と御母の夫を包む輝く美しい球を作りました。この事態は旅行中、四、五回起こったのです。聖家族は食物その他にも窮乏していましたので、御母は祈願しました。主は天使たちに命じ、おいしいパン、味つけの良い果物や飲物を持ってこさせました。天使たちは、時を移さず貧者に食物を施す主を賛美しました。
この三人の放浪者たちが助かったこの砂漠は、カザベルから逃げたエリアが天使が持って来たパンで助けられ、ホレブ山に辿り着くまで歩いたベルサベの砂漠です。

 こうして幼児イエズスは、御母と聖ヨゼフと共にエジプトの人々の住む地域に到着しました。
。。。。。。。

 元后の御言葉

御子が受肉した瞬間から、この世に於いて苦労し続けました。御子や私を見習い、苦労を忍びなさい。
 そうすれば、主の流血により救われる人々の数を増やせます。労働、困難、辛さや悲しみを抱きしめ、主を見習いなさい。

「神の都市 尊者アグレダのマリアの記録」 甲斐睦興訳 (昇る旭日の聖母会監修・発行)152〜155ページより引用


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2016年12月30日

苦労の多いマリア様の人生


Screen Shot 2016-12-30 at 9.02.48 PM.png



 クリスマスカードを見ると、どれも牧歌的な美しいものですが、聖家族の実際の生活は、貧しく苦労の多いものだったのだろうと、つくづく思います。

 特に、この人口調査のための旅と、エジプトへの逃避行は、困難を極めたものだったことでしょう。
 すでに臨月のマリアが、ロバに乗って旅をするのは、どれほど疲れることだったでしょうか。

 考えてみれば当たり前なんですが、背もたれもないので、座っているとはいえグラグラ揺れるロバの背で、長時間、自分の体を支え続けなければなりません。
 (このことを黙想して、大阪から東京までの新幹線で、座席の背にもたれない犠牲をお捧げするのは如何でしょう? 私にはとても無理ですが。)

 地図を見ると、この旅路がどれほどの長距離だったかがよくわかります。ナザレトから、ベトレヘムまで、約60マイルくらいはありそうです。約100キロの道のりですよ、聖ヨゼフ様は、ロバを引いて徒歩で。

 ベトレヘムに着いた時は、疲労困憊していたことでしょう。



イスラエルの地図.jpg
新約時代のイスラエル付近の地図
上の方の青い部分がガリラヤ湖、そのそばにナザレト
ずっと南に下って死海のそばにエルサレム、そのすぐ南にベトレヘム




「神の都会」から その様子を少し引用したいと思います。

 人の目から見れば、貧しい田舎者だったヨゼフとマリアが、人々から邪険に扱われる様子に胸を締め付けられます。
 もちろん当時の人々は、マリアが神の御母とは知らなかったのですが、「この小さい人々のひとりにしたことは、私にしたことである」とおっしゃったイエズス様の言葉は、本当にそのまま当てはまっていますね。


。。。。。。。。。。。。
(引用ココから)

 当時、世界の大部分を占領したローマ帝国は、人々に税を納めさせるため、出身地に行き登録するように命じました。このことを外出先で聞いた聖ヨゼフは、悲しそうな顔で家に戻り、聖マリアに報告しました。
 聖マリアは答えました、「どうぞ心配しないでください。私たちに起こる全ては天地の王なる主により命令されています。全てに於て御摂理が私たちを助け、導いて下さいます」(シラ22・28)。

(中略)...

 二人は出発の日を決めました。聖ヨゼフは 世界の女主人を乗せるロバを探しにナザレトの町に出かけましたが、他の人たちもロバが必要なので、なかなかロバが見つかりませんでした。やっと見つけたロバはありきたりのロバでしたが、御母と御子を運ぶという大任と幸福を頂いたロバです。

 二人は旅の必要品を五日分準備しました。聖マリアは、御子の出産のための布や産着を持っていくことにしました。二人の旅姿は貧しく見すぼらしいものでしたが、永遠なる御父の無限の愛に値する御子と二人は、天使たちから崇められました。
 自然は新約の生ける真の聖櫃(ヨシュア3・16)を認識しました。ヨルダン川は水を左右に分け、二人とその後に続く天使たちに道を開けました。天使たちは総数1万位で、聖マリアには見えました。多数の太陽よりももっと輝いていました。その他に御父と御母の間を行き来している天使たちも参加しました。

 しかし、皇帝の命令で旅してきた人たちが旅籠屋に集合している様子は、聖マリアと聖ヨゼフにとり、大変不快で困らせました。二人が貧しくおどおどしていたので、他の人たち、特に富者よりも冷遇されました。どの旅館からも次から次に叱りつけられました。旅で疲れ切った二人はそっけなく断られるか、廊下の片隅か、もっとひどい所をあてがわれました。
 そんな所に天地の女主人が留まると、天使たちは最高の王と女王の周りを固め、警護にあたりました。聖ヨゼフはそのことを知り安心し、聖マリアに休むよう勧められ、その間、聖マリアは天使たちと話をしました。

 このように苦労しながら、二人がベトレヘムに着いたのは第五日目、土曜日の四時でした。

 冬至の時で、太陽は沈みかかり、夜のとばりが落ちてきました。二人は街に入り、一夜の宿を探しながら、たくさんの道を通りました。知人や親戚の家に行き、断られ、ののしられました。もっとも謙遜な女王は、人混みの中を家から家へ、戸口から戸口へ、夫の後についてまわりました。

 人々の心も家も二人を締め出していると知っており、身重の自分を衆目にさらすのはもっと辛いことでしたが、夫に従い、この恥を忍ぶことを望みました。
 街をさすらいながら、人民登録の役所のところに出てきました。名前を登録し、献金しました。

 その後も家々を訪ねました。五十軒以上も回ったのに、全て無駄足に終わりました。聖マリアの忍耐と温和、それにひきかえ、人々の頑なな心に天使たちはあきれ返ってしまいました。

 追い払われ、心臓が破れそうになった悲しい聖ヨゼフが 妻の所に来たのは夜の九時でした。(*ベトレヘムについてから5時間経っているー管理人注)

「私の最も甘美なる貴婦人、私の心は悲しく、裂けそうです。御身を泊める所を探せず、厳しい天候から御身を守れません。疑いもなく、天は秘密を隠しています。ところで、市の城壁の外に洞穴があるのを思い出しました。羊飼いたちや羊たちのための避難所です。そこへ行ってみましょう。天は地が与えてくれなかった助けを与えるかもしれません。」

 最も思慮深い聖マリアは答えました、「私の御主人様、このような事態になったことを私の胎内にいる神に感謝して下さい。御身のおっしゃる所は私にとり最善と思われます。御身の悲しみの涙は喜びの涙に変わるでしょう。貧乏は私の至聖なる御子の計り知れない貴重な宝です。貧乏を抱きしめましょう。喜んで主の御導きになる所へ参りましょう。」

 聖なる天使たちは、道を明るく照らしました。城壁の外の洞穴は空になっていました。二人は主に感謝しました。
 
 。。。。

 王の中で最高の王、主の主が永遠の御子の生れるために選んだ所は、最も貧しい洞穴でした。どんな旅人でも考えつかなかった宿泊所ですが、謙遜と貧乏の先生である我らの救い主と御母にとって望まれた場所です。何もなく荒れ果て見すぼらしい所が光の最初の神殿となり(詩篇12・4)、輝く聖マリアの心から出る正義の太陽の家となりました。


「神の都市」甲斐睦興訳 (昇る旭日の聖母会監修・発行)
 130〜134ページより引用

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2013年05月20日

秋田巡礼の黙想2013


聖母マリアの涙、それは、救世のために御子を与えて下さった御父の痛みを表わすものでもあります。

聖母マリアは イエズス⋅キリストが磔られた十字架のもとに、断腸の思いで、苦しみと悲しみでいっぱいの思いで、涙を流しながら立っておられました。

私たちは、あまり御父の痛みを考えないけれども、御子イエズスの受難を見る御父には、聖母と同じ程の大きな痛みがありました。

天主なる神、御父にとっても、自分の最も愛する者、美しいもの、素晴らしいものが、滅茶苦茶に侮辱され、破壊されていくのを見ることは大きな痛みでした。

でも、「父」という男性位格として、また、全人類の罪の罰である受難を与えている裁判官の立場としては、涙を流し(肉身が無いので涙は無いけれども)私的な立場での痛みを表してしまうことは、ふさわしくないことです。

その純粋で激しい愛のための痛みを反影して表しているものが聖母の涙です。同じ一人子、完全で、美しく、素晴しい、自分の一人子を捧げた同じ痛みです。

聖母マリアは、自分の御独り子を全人類の救いのための犠牲として捧げられ、その御独り子を与えられた御父と同じ痛みを忍ばれた、無にすぎない女が、天主なる神と同じ痛みを捧げられたことは、本当に偉大なことだと思います。


御父が、一番大事な 御独り子を私たちに与えて下さったのは、全く、私たちへの愛の故にです。
これは、全知全能によって、初めから分かっておられたので、最大の犠牲をいとわない愛をもって、私たちを創造して下さったのです。


「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)



普通の人間の親が、生まれて来る子供のために良いものを準備したり、子供のために犠牲をいとわないのも、神なる御父の私たちへの完全な愛のわずかな反映です。
親の愛を表す逸話はいろいろありますが、雪の中で立ち往生したお父さんが子供に自分のコートを着せて守り自分は死んでしまったことや、戦時中めったに手に入らないフルーツの缶詰めをお母さんは食べないで子供たちにだけあげたことなどは、人間の心にある御父の親的愛の反映です。


天主なる神、御父は、創造のみ業によって、私たちの住むべき地球を整え、美しい自然で満たして下さいました。
反抗し、失敗をしてしまう子供たちを予見して、救いの道を準備して下さいました。
御父は、私たち人間が、一人でも多く天国に行き、永遠に幸福に生きることを望んでおられます。

私たちは、皆、御父の愛に包まれて生きているのです。



このことを良く黙想するならば、私たちが神なる天主様を愛するために、自分の一番大事なもの、美しいもの、すばらしいもの、をお捧げしたい、と考えるのは当然のように思えて来ます。たとえ痛みを伴ったとしても。

「私を愛するものは私の言葉を守る」と、イエズス様はおっしゃいました。

まずは、掟を知り、遵守することから。
そして、秋田の講話で、ダニエルス神父様がおっしゃったように、許されていることでも天主様への愛のためにお捧げすることができるようになるでしょう。

大きなことはできなくても、少しずつ、小さな事から。。。おやつをちょっと少なくするとか、好物をしばらく絶つ、とか。。。
私たちを「先に愛して下さった」天主なる御父に感謝するために、愛するために。。。
少しでもがんばりましょう、と思いました。

拙い分かち合いを読んで下さって、感謝します。

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2013年03月30日

十字架の下に立つ「婦人」は私たちの母となられた


 安田神父様の名著「十字架の神秘」より、引用します。

受難節のために最良の黙想の糧になると思います。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


 < イエズスは、母とそのそばにいる愛する弟子を見て、母に「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」と言われた。 >
(ヨハネ19.26)

 
 釘づけにされていたイエズスは、手や足、全身が火炎に包まれているかのような激痛のさなかにあって、母とかたわらに立っている弟子を眺めて言われた、そのもの静かな言葉には驚きを感じる。

 それは人間のものではなく、神の言葉であった。

「婦人よ」と呼びかけるが、かつて神が人祖アダムとエバを楽園から追放されたとき、蛇に対して、新しい婦人を出現させて、蛇の頭を踏みくだかせることを宣言した「婦人よ」という言葉に思いあたる。
 また、イエズスが公生活の初めに、カナの婚宴の場において、最初の奇跡をおこなうにつれて、自分の母なるマリアの願いを受けいれて、「婦人よ」と呼びかけた。

 今、十字架のもとに立っている母を眺めて、「婦人よ」と聖書で三たび呼んでいることに重要な意義がある。

 つづいて、「ごらんなさい」と言って彼の愛する弟子を指名して、「これはあなたの子である」と言った。
彼が十字架の上に流した血を、真っ先に十字架の下に立っているヨハネにまず注いで、彼を救いにあずからせ、彼女の子としたのである。

 十字架の彼の血が流されて、罪が洗われなければ、誰も神の子となってキリストの兄弟に結ばれて、聖母の子に生まれ代わることはできない。
 この神秘である霊的真理を、イエズスは十字架の上からみごとに遺言として与えたのである。これはまことに意義深い信仰の奥義である。




 キリスト信者は、イエズスの十字架の血の神秘に生かされてこそ彼の母を自分の母としていただけるものである。

 彼(イエズス)の血が(作用する)、神の計画の神秘の働きによって、(私たちが)マリアの子となる恵みをいただくのであって、それは自然の働きではない。

 イエズスの人となりは、母マリアの胎内に、聖霊の働きによって自然の肉体をもった人間として宿ったのである。

 罪人であるわたしたちは、神の御子の血によって罪から贖われ、清められたのちに、聖霊によって、聖母の霊的子となることを示している。

 これこそ隠された十字架の神秘である。


 この神秘の奥義は、自然の知恵では悟ることなく、神だけが知っているので、神にはなにものも隠されていない。


 いったん罪に陥った人間がゆるされて救われることは、サタンにとっては、この上もないねたましいことであり、恐ろしいことのように思われる。

 この神秘を通して、救い主の母、マリアが わたしたちの霊的な母となるのであって、サタンはその神秘に恐怖を感じている。

 創世記の言葉によれば、神の御子はその母と子らによって、サタンの頭を世界の終わりに一緒に踏みくだき、キリストの神秘体が完全に勝利をおさめるのである。



 神の言葉に従って わたしたちが、聖母を霊における母として信仰のうちにいただくということは、どれほど素晴しいことであろうか。

 聖母のみ心に自分をささげることは、この「婦人」に愛されることであり、それと同時に天の御父が聖母と共にいらっしゃる愛のうちに包まれることになる。

 そうでなければ、神の国、天国は約束されていないのである。



十字架の神秘 安田貞治著 緑地社発行
202〜204ページより引用

(カッコ内は管理人による補足語です)



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2012年03月09日

ロザリオの祈りの黙想(喜びの玄義)

 ロザリオの祈りは、多くの聖人方も 黙想の仕方を教えて下さっていますが、私たち一人ひとりが、自分なりに黙想し、祈りを深めていくのも良いのではないか と思います。

昨年は、恒例の秋田巡礼に参加できなかったのですが、巡礼の皆様と 心を合わせてお祈りしていた頃、ロザリオの祈りの新しい黙想が心にひろがっていきました。
それで、僭越ながら、分かち合いたいと思います。

 ロザリオの祈りは、キリスト信者の霊魂と、その完成への道のりを象徴しているように思います。
聖母マリアはキリストの聖血によって贖われた者、永遠の命を与えられたキリスト信者の、最も美しく完全な見本です。

 聖母マリアを仰ぎつつ、聖母マリアと共に、
キリスト信者として完成に向かって歩みを進めるために、
美しいロザリオの祈りを日々黙想しつつ祈ることは、
大きな助けとなるのではないでしょうか。

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喜びの玄義


【第一玄義】 この一連を献げて、聖母が御告げを受け給いたるを黙想し、その御取り次ぎによりてけんそんの徳をこいねがわん。

1。御言葉との出逢い

この玄義は、霊魂の「神の御言葉」との初めての出逢いを象徴しています。

宇宙万物について、私たちは、ほとんど何も知らないのですが、あまり疑問にも思わず生きています。
自分は何でも良く分かっているという錯覚を捨て、謙遜にへりくだる時、「神のみ言葉」を受け入れる準備をすることができます。
謙遜とは素直に真理を求める心だと思います。

マリアは 天使の御告げを受けて 理解できず、
「どうしてそんなことが。。。起こるのでしょうか?」
と尋ねました。

ザカリアは 天使の御告げを受けて 理解できず、
「どうしてそんなことが。。。起こるわけがない。」
と言いました。

マリアは 貧しい田舎の少女でしたが、すみやかに信じました。
ザカリアは 富裕で学識ある祭司でしたが、信じるために時間がかかりました。

人知を超える「全知全能の神が存在する」ことは真理です。
まず この真理を受け入れることから、すべては始まるのだと思います。



【第二玄義】 この一連を献げて、聖母がエリザベトを訪問し給いたるを黙想し、その御取り次ぎによりて 人を愛する徳をこいねがわん。

2。自然徳を学ぶ

この玄義は、霊魂の自然なレベルでの 徳の成長を象徴しています。

神への信仰を学びつつ、霊的な希望が、穏やかに心にひろがっていきます。
霊魂は、主を受け入れる準備を始め、自然なレベルでの愛徳の実践に努めるようになります。


まず、隣人に親切であること。家族に、とくに年寄りや弱い者に。
義務をよく果たすこと、忍耐すること、などなど。

マリアは、近い親戚であったエリザベトを思いやって、お手伝いに行きました。
エリザベトは非常に年を取ってから 洗者聖ヨハネを懐妊したそうですが、他に子供もなく、親戚の若い乙女マリアが訪れてくれたことは、どんなにか心強く、また実際的な助けとなったことでしょう。
伝承によれば、もう目が悪くて、紡ぐことも織ることもできないエリザベトにかわって、マリアが生まれてくる子のために布を準備したそうです。



【第三玄義】 この一連を献げて、主の降誕し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて清貧の徳をこいねがわん。

3。洗礼

 真に、聖主はその尊い御姿を現して、私たちの貧しい心においでになって下さいます。

 貧しくみすぼらしい馬屋のように、私たちの心は聖主をお迎えするにふさわしくないのですが、
聖母マリアと聖ヨゼフにお願いして、私たちの心をできるだけ整えていただきましょう。
聖主のお生まれになった時が、寒さのきびしい夜であったように、
世間は真の神に対して冷淡でありますから、
せめて私たちは、羊飼いたちのように、真心からの礼拝と、
貧しくとも、できるかぎりの贈り物(日々の愛徳の実行)をお捧げいたしましょう。

幼子のイエズス様は、新しく無垢に生まれた私たち一人ひとりの象徴でもあります。
洗礼の御恵みによって、私たちは「聖性の恩寵」を受けて、神の子供として霊的に生まれます。
洗礼は私たちの霊魂に、永遠に消えない聖寵の印を刻みます。

この尊い洗礼の御恵みを私たちがいただけるのは、
幼子イエズス様が苦しみの生涯を予見する神であったにもかかわらず、
この世に来てくださったおかげなのです。感謝しましょう。



【第四玄義】 この一連を献げて、聖母が潔めの式にあずかり、主を聖殿に献げ給いたるを黙想し、その御取り次ぎによりておきてを守る徳をこいねがわん。

4。掟を守る


「私を愛するものは私の掟を守る。」と、イエズス様はおっしゃいました。

 神の掟は、私たちを拘束するものではなく、神の子供として新たに生まれた私たちが、
その身分にふさわしい礼節をもって生きるための指針なのです。

「天主の十戒」は、ヘブライ語の原文では
「汝、殺すなかれ、盗むなかれ」という否定の命令形ではなく、
「あなたは殺さない、あなたは盗まない」と、普通直接法で書かれているそうです。

 愛の神である御父が、その子供となった私たちに、
「私の子供たちは殺さないのだよ。うそをつかないのだよ。父母を敬うのだよ。」
と教えて下さっているかのようです。

 第一に謙遜に御言葉を聞き、第二に自然徳を学ぶことと共に、
洗礼を受け教会の子供となった私たちは、子供としての義務と権利を受けたので、
掟を守り、信者としての義務を果たすことに、日々務めるようになります。



【第五玄義】 この一連を献げて、聖母が主を聖殿にて見出し給いたるを黙想し、その御取り次ぎによりて主を愛する徳をこいねがわん。

5。試練と逡巡

 洗礼を受ける前後の頃、喜びいっぱいで、熱心に始めた信仰生活も、
時折、いろいろな試練が起こるようになります。

自分の進むべき道が、全く見えないように感じられる時もあります。

自分で理解できない苦しみの時も、聖母のように信頼しつつ忍耐するように務めましょう。
私たちが人間的に普通に考えていることと、神の遠大な計画は異なることがあります。

聖母マリアが、かけがえのない神の御子、少年イエズスを探し求めたように、
私たちも、怠惰や失望に落ち入らず、信頼と忍耐とをもって神の御旨を探し求め、
日々の祈りと愛徳の業に精進し、良い生活に務めることによって、
ますます深くイエズス様を愛するようになり、霊的に成長していきます。


(つづく)

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