2015年11月01日

ALL SAINTS DAY!


諸聖人.jpg



諸聖人の祝日おめでとうございます。

今日は、天国にいるすべての聖人方のお祝い日です。
列聖され公式に聖人とされた人々も、そうでない無名の聖人たちも、皆一緒にお祝いします。


なので、私たち皆の霊名の聖人のお祝い日です。

私たちも皆いつの日にか天国の皆さんの仲間に入れますように。


ちょっと浮かれ過ぎかも、ですが、時にはこんな曲もいいんじゃないでしょうか?

こういう歌詞が流行歌になるというのが、ほんの一昔前なんですよね。







Oh, When the saints go marching in
When the saints go marching in
Yes, I want to be in that number
When the saints go marching in

あぁ聖人たちが行進していくときに
聖人たちが行進していくときにさ
僕もその中の一人でいたいなぁ
聖人たちが天国に行進していくときに



Happy All Saints day!!!

Today is everybody's feast day!

Love you all!


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2015年10月09日

私は反戦運動には参加しません。

世界平和のためにできることですか?

家に帰って家族を愛してあげてください。


私は反戦運動には参加しません。

ですが、平和運動には喜んで参加します。



- マザー・テレサ -



マザーテレサ1.jpg




他にはこのようなことを仰っています。



人はしばしば不合理で、非論理的で、自己中心的です。
それでも許しなさい。


人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人にやさしくしなさい。



成功をすると、不実な友と、本当の敵を得てしまうことでしょう。それでも成功しなさい。
正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。それでも正直に誠実でいなさい。
歳月を費やして作り上げたものが、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。それでも作り続けなさい。
心を穏やかにし幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。それでも幸福でいなさい。
今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。それでも善を行いを続けなさい。
持っている一番いいものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。それでも一番いいものを分け与えなさい。




あなたは、あなたであればいい。



この世界は食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きいのです。



貧しいことは美しいことです。



平和は微笑みから始まります。



神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけよ。



私たちは、大きいことはできません。小さなことを大きな愛をもって行うだけです。


導いてくれる人を待っていてはいけません。あなたが人々を導いていくのです。



人間のほほえみ、人間のふれあいを忘れた人がいます。これはとても大きな貧困です。



いかにいい仕事をしたかよりもどれだけ心を込めたかです。



あなたに出会った人がみな、最高の気分になれるように、親切と慈しみを込めて人に接しなさい。
あなたの愛が表情や眼差し、微笑み、言葉にあらわれるようにするのです。



一切れのパンではなく、多くの人は愛に、小さなほほえみに飢えているのです。



愛されることより愛することを。
理解されることよりは理解することを。



所有すればするほど、とらわれてしまうのです。
より少なく所有すれば、より自由でいられます。



喜びとは、魂を捕まえられる愛の網なのです。



私たちは、成功するためにここにいるのではありません。
誠実であるためにここにいるのです。



短くて口に出しやすい言葉でも、心のこもった言葉はある。
そんな言葉はいつまでも心の中に輝き続ける。



大切なのは、どれだけ多くをほどこしたかではなく、それをするのに、どれだけ多くの愛をこめたかです。
大切なのは、どれだけ多くを与えたかではなく、それを与えることに、どれだけ愛をこめたかです。




富める人のほうが貧しいと思うときがあります。
富める人のほうが内心孤独であることが多いのです。



心が愉しむことは、どんな美容師にもまさる効果があります。




もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そして私が与えなかったからです。



日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。
愛はまず手近なところから始まります。



今、この瞬間幸せでいましょう。それで十分です。
その瞬間、瞬間が、私たちの求めているものすべてであって、他には何もいらないのです。



暗いと不平を言うよりも、あなたが進んで明かりをつけなさい。



飽くことなく与え続けてください。残り物ではいけません。
痛みを感じるまでに、自分が傷つく程に与え尽くしてください。



説教してきかせても、それは人とふれあう場にはなりません。
ほうきをもってだれかの家をきれいにしてあげてごらんなさい、そのほうがもっと雄弁なのですから。



愛とは、大きな愛情をもって小さなことをすることです。



誰かに微笑みかけること、それは愛の表現であり、その人へのすばらしい贈り物となるのです。




昨日は去りました。
明日はまだ来ていません。
わたしたちにはただ、今日があるのみ。
さあ、始めましょう。




〜マザー・テレサ〜


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。



加藤 貴さんのブログより転載させていただきました。
http://ameblo.jp/taka-stefano/entry-12061837406.html
マザーテレサの言葉はカトリックでない人々にも響くものですね。


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2015年08月22日

中国の教会破壊


 昨年2月に、「中国共産党序列4位の兪正声・政治局常務委員(全国政治協商会議主席)が、宗教活動に対する管理を強化すべきとの考えを示した。」というニュースがちょっと流れましたが、その後の4月頃から、中国のキリスト教会の弾圧が厳しくなってきたようです。


 特にキリスト教の活動が盛んな浙江省では、現在までに何千もの教会が十字架撤去されたり、取り壊されたりしたと推計されています。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2015080401001310.html


十字架撤去.jpg

十字架撤去される教会


 非公認の教会ばかりでなく、「公認」された教会も破壊されています。

 浙江省温州市の「三江教会」の聖堂は、建築許可などを正式に受けていた「公認教会」でしたが、完成間近になって突然、「十字架が大きすぎる」などとされ、「違法建築」認定されたそうです。
 そして、その対応として、なぜか教会の十字架撤去ではなく、教会堂全体が徹底的に破壊されました。

 三江教会堂の建設には12年の歳月と、約5億円の資金が費やされたそうです。建築費用は、少ない貯えを捧げた高齢者方の献金など、すべて信徒からの寄付金で賄われたものだったそうで、為す術も無く教会破壊を見つめていた信徒の方々の無念な気持ちが思い遣られます。

 信徒の一人は「私たちは老後の貯えを、お年寄りは自分の棺のお金も捧げて、この会堂を建てました。ここは私たちの家なのです」と話していたそうです。泣き出す人もあったそうです。


 ネット上の関連記事から写真をいくつか転載します。

参考にした記事はコチラ
中国の教会破壊
http://www.christiantoday.co.jp/articles/13215/20140429/chinese-christians.htm
http://www.christiantoday.co.jp/articles/13228/20140502/chinese-christians.htm
http://www.christiantoday.co.jp/articles/13153/20140415/chinese-church-protest.htm



中国三江教会の破壊4.jpg
完成目前の浙江省温州市の三江教会



中国三江教会の破壊5.jpg
三江教会を守ろうと集まって座り込みをする多くの信者たち



中国三江教会の破壊1.jpg
それでも教会の破壊は始まった



中国三江の教会破壊6.jpg
ガンガンと打ち壊されていく三江教会



中国三江教会の破壊2.jpg
夜までにはほとんど取り壊されてしまった三江教会



中国の教会破壊3.jpg
破壊された教会の前で嘆く信者たち(別の教会)


 ネット上の投稿欄などには、今も、中国人信徒たちから海外の信徒たちにあてた、祈りの要請などが次々と書き込まれているそうです。
 どうかお祈り下さい。


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2015年04月26日

秋田巡礼2015


GWに秋田に巡礼してきます。

拙いブログを読んでくださる皆様のためにも、秋田のマリア様に、たくさんお祈りします。


コメント、ありがとうがざいます。
コメント欄に、お返事できなくてすみません。
巡礼が終わって落着いたら、エラーの原因を解決しようと思います。

良い巡礼になりますよう、どうかお祈り下さいませ。

posted by テレジア at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月05日

キリスト十字架上での勝利の預言

+御復活祭のお喜びを申し上げます。

復活のキリスト.jpg



復活されたキリストの力強い祝福が皆様の上に豊かにありますように。


十字架上で、イエズス様は死の間際に「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と言われました。これは、「わが神よ、わが神よ、どうして私を見捨てられるのか」という意味です。

この言葉で、イエズス様は、天の御父なる神様にさえも全く見捨てられた心情を表していた、と言われています。霊的遺棄、霊魂の暗夜と言われる状態です。


そして、もうひとつには、イエズス様は詩編を唱っていたのです。
詩編21のこの箇所に続くのは、キリストの受難の様子です。
そして、それに続く勝利の預言です。
キリストは諸々の民を治め、主のなされた贖いの御業は未来世々に語り継がれるであろう、と。

イエズスキリストの神性の叡智と人性の理性は、十字架上で全人類の贖罪の業を果たしつつあることを理解していたし、それに続く自身の復活と全人類の罪からの解放、そして神の国の到来を予見していたのです。



詩編21

神よ、わが神よ、私をかえりみ給え。なぜ、私を棄て給うたか。なぜ、私を救わず、私の嘆きを聞き給わぬか。

(受難の部分は略、以下は勝利の預言の部分です。)

主をおそれる者よ、主をほめたたえよ。
ヤコブのもろもろのすえよ、主に光栄を帰せよ。

イスラエルの民はこぞって主を崇え。
主は貧しい者の願いを軽んぜず、こばみ給わなかった。

御顔を私よりそむけ給うことなく、私が叫ぶときその声を聞き給うた。

大いなる会衆のなかで、私の讃美は主から出る、私は主をおそれる人々の前で誓をはたす。

貧しい者は食べて満たされ、主をたずね求める者は主を讃美するであろう。かれらの心は世々に生きるであろう。

地の果ての者はみな、主を思い出して帰るであろう。
あらゆる諸民のやからは、御顔の前にひれ伏すであろう。

なぜなら、覇権は主のものであり、すべての民の統率者は主だからである。

地の勢力者は、彼の御前にひれ伏し、塵に下る者はみな、彼を拝するであろう。

私の心は、彼によって生き、私のすえは。彼に仕えるであろう。

未来の世々、主のことが語られ、生れるべき民の間に主の正義が告げられ、主の行い給うたことが語り伝えられるであろう。


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2015年04月03日

今も嘲弄されるキリストとその母

茨の冠とキリスト.jpg 



 聖金曜日です。
「茨の冠」に表象される、聖主キリストの精神的な苦しみを想います。

 ユダヤの司祭長、議員らが「彼は死にあたる」と決めた後;ー
ここに彼らは、その御顔に唾し、拳で打ち、ある者は平手でたたいて言う、「キリストよ、我らに預言せよ、おまえを打ったのは誰か。」(マテオ26/67、68)

 鞭打ちの傷で血だらけのキリストに対して ;ー
総督の兵卒どもは、イエズスを役所につれゆき、全隊をそのもとに集め、その衣服をはいで赤い外套を着せ、茨の冠を編んで、その御頭にかぶらせ、右の手に葦を持たせ、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王よ、ご挨拶申し上げます。」といって嘲けり、また彼に唾をかけ、その葦をとって御頭を打った。(マテオ26/27〜30)

 左右にいる強盗と共に十字架に釘付けられ晒されていた瀕死の際に;ー
往来の者どもは、ののしり、頭を振って言っていた、「神殿を壊して三日の内に建てる者よ、もしおまえが神の子ならば、自分を救え、十字架から下りよ。」
司祭長らもまた、律法学士や長老らとともに嘲って言っていた、「人を救って自分を救うことができない。彼がイスラエルの王なら、今 十字架から下りよ、そうすれば我々も信じよう。彼は神に依り頼んだ。もし、神が彼を愛したもうならば、今救い給えよ、”私は神の子だ”と言っていたのだから。」(マテオ27/39〜43)



受難の始めから終わりまで、キリストは嘲笑され続けました。
身体の苦しみだけでなく、「名誉を汚される」「面目を潰される」「バカにされ、笑い者にされる」という精神的な苦しみ、心の苦しみを受け続けたのです。


この侮辱、嘲弄は、現代でも続いています。
受難当時より、ある意味で、さらに酷いものになっています
リンク先には、同性愛者による、キリストと聖母への冒瀆の画像があります。

キリストと聖母が、いかに嘲笑され続けているか、という現実を知るために、見ても良いのではないか、と思います。
見ると罪になることを恐れる方は見ないで下さい。
スクロールダウンする時は気をつけて下さい。
【閲覧注意】です。
http://jesusinlove.blogspot.com.au/2014/12/queer-lady-of-guadalupe-artists-re.html


これらの同性愛者たちは、神を恐れず、冒涜し、また同時に、神を認め敬愛するすべてのキリスト者の心を踏みにじっているのです。

それでも、カトリックを含めキリスト教会の聖職者方は、同性愛者たちのこういった不敬や冒瀆に対しては、反対して何か言うと「少数派への差別だ」と批判されることを恐れて、何もできずにいるのです。
そのとき弟子たちは皆、イエズスを棄てて逃げ去った。(マテオ27、56)

もっと酷い画像もあります。たくさんあるでしょう。(これ以上見る必要はありませんが。)
数年前には、スペインのゲイグループが、このような画像ばかりでカレンダーを作って発行していました。組織的でもあります。


これらの事実を知って、私たちは嘆きながら、聖主イエズスキリストと聖母マリアに、伏してお詫びをしなければなりません。

ファチマの天使の祈りを、御出現を受けた子供たちのように、平伏して何度も唱えたいと思います。

「ああ、わたしの神よ、わたしはあなたを信じ、あなたを礼拝し、あなたに希望し、あなたを愛します。あなたを信ぜず、あなたを礼拝せず、あなたに希望せず、あなたを愛さない人たちをお許し下さい。」


主を慰める者.jpg


秋田でも聖母はおっしゃいました。

「世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは聖主を慰める者を望んでおります」

聖母のお望みに、私たちの貧しい愛をもって答えたいと思わないでいられるでしょうか。



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2015年03月29日

キリストの御受難に添いて四旬節を生きる


フランシスコ・パウロさんから、メールをいただきました。
秋田ミニ巡礼記で、ご紹介した「癌」を癒されたフランシスコ・パウロさんです。
http://akitadiary.seesaa.net/article/380397276.html?1427946629

メールを読んで、私も、四旬節をキリスト者として、より良く過ごすために努めたいと思いました。

分かち合わせていただきます。




。。。。。。。。。。。。。。。。。。
ー(引用ココから)ー

御存じのように、春分の日の後の満月のすぐ後にくる日曜日が御復活祭です。それをさかのぼること日曜日を
除く四十日目が「灰の水曜日」となります。日曜を合わせると四十六日となります。


これ程熱心に「十字架の道行」をしたことは未だかってありません。


おと年の私の癌を含む全身五か所の疾患、

昨年は義母の小脳の九割の壊死。

そして義息の劇症肝炎、死を覚悟しなければならない手術。

今年に入り弟の三叉神経の劇痛による疾患、

そして頭蓋骨を開けての手術、

これでもか!という苦難の日々でした。
しかし全て「御心」により癒されました。

そこで今年の四旬節は犠牲の信心行として毎日「十字架の道行」を祈り黙想することにしました。
また金曜日は大斉、小斎と決めました。私の年では免除されますが、あえて行うことにしました。


経験したあらゆる辛さを思い出しながらの祈りです。

また十四留の内容にこのたびのISの事件も重なって圧し掛かってきます。


初めは涙涙の行でした。
しかしだんだん深い黙想に入ることが出来ました。

主の御苦難の一つ一つの事柄は黙想するに大変つらいものです。

しかし、第七留「イエズス二度倒れ給う」において

「・・・われらの悲しむ時に当たりて頼もしき心を失わせじとなり、
天に昇る道は十字架の道にて、すなわち苦しみの道なれば、
御苦難の功力により、われらをして雄々しき心をもって、歩ましめ給わんことを・・・」


この箇所にとても慰められ、思わず紫の布の覆いを取り十字架を眺め入るのです。

「枝の主日」です。喜びの内に「主」をお迎えする事が出来るように願うのです。


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