2013年05月30日

聖母マリアの悲しみの理由

 先日、紹介させていただいた、マリア⋅ヴァルトルタの預言と、秋田の聖母の預言には、似たところがあるように思います。

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マリア⋅ヴァルトルタの預言

 戦争、疫病、地震、豪雨によって誘起された大量死は、善人と悪人とを彼岸に突き落とすだろう。
  (中略)
 乞食であろうと王であろうと、無知であろうと学者であろうと、老人であろうと若者であろうと、司祭であろうと兵士であろうと死に対して相違は無く、砦を築くことはなかろう。罰はあるだろうし、それは恐るべきものであろう。

(1943年10月29日 聖主イエズスの御言葉)



秋田の預言

 もし人々が悔い改めないなら、御父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのとき御父は、大洪水よりも重いいままでにない罰を下されるに違いありません。
 火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。
 よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。

 
(1973年10月13日 聖母マリアの御言葉)


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 いろいろな預言があり、天罰に言及するものも多々ありますが、私たちは現世的な死を恐れることはありません。

 カトリック信者として大事なことは、現世の死の後に、「永遠の命」を得ることです。
 聖主イエズスは、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10・26、28)と、おっしゃいました。

 
 私たちが「永遠の命」を受けるかどうか、そのチャンスは、この世に生きている間にだけあるのです。もし、神様の御目にとって何か悪いことをしているなら、どうしても生きている間に痛悔して改心しなければなりません。

 カトリック信者として、教会の教えをよく理解し、掟を守って生活していれば、現世の死を恐れる理由はありません。死に伴う一時的な苦しみ悲しみは甘受して、神様にお捧げすればよいのです。
 私たちが苦しみや悲しみを捧げるときに、それは祈りとなり、神様からの恵みとなって返ってきます。それは、自分自身のためにも、他の人々のためにも、善となって広がって行きます。
 


 同じときに与えられた秋田の聖母のメッセージは、以下のように続いています。

 「たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。」

 ロザリオの祈りをたくさん唱えて下さい。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう。」


 聖母が悲しまれるのは、「霊魂が失われること」のためです。地獄に堕ちた霊魂には、「もはや罪のゆるしは無く」、永遠の命を受けるチャンスは、二度と無いのです。永遠の死、永遠の苦しみです。
 私たちは、この「永遠の死」をこそ、恐れなければなりません。そして、その危険があると思われる人々を見るならば、聖母と共に、悲しまなければなりません。

 ロザリオを唱えましょう。聖母に寄りすがる者は、必ず助けられるでしょう。「迫っている災難」とは、霊魂を永遠に失うことに他なりません。
 
 いつ天災があっても、不慮の事故があっても、神様の御前に出る準備ができていますように、毎日、聖母マリア様の尊い御名をお呼びしましょう。


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2012年03月11日

「緊急の場合の洗礼」を再掲します。


 昨日、今日と、聖伝の御ミサにおいて、東北大震災で亡くなられた方々のために、心からお祈りさせていただきました。
 亡くなられた方々、再興のために苦労されている方々のために、今後も引き続き、お祈りいたします。

 去年の ちょうどこの日、臨終の方々のための「緊急の場合の洗礼」の記事を書いているとき、日本の東北大地震のニュースを聞きました。


 私たちは 若いほど「死の準備」ということを、ほとんど考えずに生活していますが、本当は、私たちのこの世の命は、いつ終わるか分かりません。

 これから、戦争、災害の時代になりますし、この記事を再掲しておきたいと思いました。
緊急の場合の洗礼は、司祭でなくても授けられますし、聖水でなく普通の水でも、大丈夫です。


 また、「死の間際」に関する記事を、その後もいくつか掲載したのですが、
最近になってアクセス解析を見ていたとき、
「死の間際」とか、「死の前に」とかで検索されてブログに来られる方が、
ときどきいらっしゃることに気が付きました。

 それで、カテゴリーとしてまとめて、良き死のために、これからも関連記事を 少しずつUPしたいと思います。


 カトリック者ならば、普通の信徒の方であっても、たまには 静かに内省する時間を取って、
自分の この世の命が終わり、神様の御前に立つときのことを 考えるのも良いのではないかと思います。

 修道者は、ふつう月に一度、静修の日を設けて、内省したり、所持品の整理をしたりして、霊魂と肉身の準備をします。


 カトリックでない方であれば、「いつも善意で生きてきただろうか?」とか、「思い残すところは何か?」などと考えてみるのも良いのではないでしょうか。


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(再掲記事 ココから。。。)

1973年の10月13日、秋田の聖母像の声によって与えられた、第三のそして最後のメッセージのなかに、以下のような言葉があります。

「愛する娘よ、これから私の話すことをよく聞きなさい。そしてあなたの長上に告げなさい。
前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰をくだそうとしておられます。そのときおん父は、大洪水より重い、今までにない罰をくだされるに違いありません。
火が天から下り、その災いによって、人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々をうらやむほどの苦難があるでしょう。
そのとき、私たちに残る武器はロザリオとおん子の残された印だけです。毎日、ロザリオの祈りを唱えてください。...」



 紀元2000年を 過ぎた頃から、「この言葉は、実現しなかった。」 といったような意見を聞くようになりました。
 が、秋田の聖母様のメッセージにも、天使のメッセージにも、「2000年までに、」 とか、「今世紀中に...」 とかいうお言葉は、まったく無いのです。このような意見を言われる方は、他のいわゆるメッセージといわれるものや、ノストラダムスなどと、混同しているのかもしれません。
 
 このお言葉は、まだ実現していませんが、真実の予言であるならば、いつの日にか実現してしまうでしょう。もちろん、「もし人々が悔い改めないなら」 という 条件付きですが。

 たしかに、2000年くらいから、人々は、この深刻な予言について、気にしないようになり、現在は半分忘れられてしまっているのかもしれません。 けれども、その日は、次第に近づいているのです。

 もし、このような災害が起こり、緊急の事態になった時に、身近にいる家族や友人が望むならば、洗礼を授けたいと思われるかもしれません。
 
 そういった時に、緊急の場合は、司祭でなくても、洗礼を授けることができるという事を、憶えていていただきたいと思うのです。


 公共要理から、以下に引用します。

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(引用ココから。。。)

問:洗礼を授けるのは、誰でありますか?

答:洗礼を授けるのは、普通、司教か司祭であります。しかし必要の場合は、誰でもこれを授けることができます。
死に臨んだ未信者に洗礼を授けるのは、他人の霊魂を救うことでありますから、信者はこれをゆるがせにしてはなりません。
(大人の洗礼については付録参照。)

問:洗礼を授けるには、どのように致しますか。

答:洗礼を授けるには、本人の額に水を注ぎながら、
「我、聖父と 聖子と 聖霊との御名によりて 汝を洗う。」
(われ、ちちと こと せいれいとの みなによりて、なんじをあらう。)
と、唱えるのであります。
(マテオ28・19)


<付録>
死に臨んだ未信者に洗礼を授ける時に、教えねばならぬ事柄は何でありますか。

この際、教えねばならぬことがらは、

1、霊魂の不滅、天国の幸福と地獄の苦しみ、罪の赦しを受けなければ天国に行かれないこと。

2、天主の存在、三位一体のこと、第二位は人となり、十字架に付けられ、人々の罪を贖い給うこと。

3、救い主に依り頼むこと、天主を愛し奉ること、生涯の罪を痛悔すること、罪の赦しを得て天国に行くために洗礼を受けなければならないこと、


などであります。これらを一々に説明する暇も無く、また、病人もこれを理解する事ができぬ場合には、せめて

1、霊魂の不滅と死後の賞罰、
2、天主の存在、
3、一生涯の罪を心から痛悔すること、


を 教えねばなりません。


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昨日、この記事を 準備している時に、日本で大地震があったことを知りました。
亡くなられた方々のために、お悔やみ申し上げます。
お祈りさせていただきます。

(再掲記事 引用終わり)

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2011年04月29日

死の間際の美しい言葉


 数年前だったか、スイスの神学校の神学生が、雪山のハイキングで雪崩に遭い、3人死亡するという事件がありました。覚えていらっしゃる方も多いかと思います。

しばらくして、生き残った神学生の談話がメールで来たので読みました。
およそ 以下のような話でした。

 
 その生き残った神学生は、4人のグループで 先頭を歩いていました。
ふと、後ろのグループの仲間たちが、あまり遅れていないか気になり、様子を見に引き返したそうです。ちょっと行った所に後続の仲間たちはいて、励ましながら、先頭のグループに近づこうと歩いていきました。視界の開けたところに出たら、先の仲間たちが見えるはずでしたが誰もいませんでした。ただ雪崩の跡があり、その神学生は一瞬にして、何が起こったのか悟ったそうです。


 その日の朝、皆そろって雪山ハイキングに行く車の中で、ちょうどその日の福音の箇所、「5人の賢い乙女と5人の愚かな乙女の話」 が、話題になりました。

 中の一人が、皆に、「もし、いまこの時、突然に、主の御前に召されたら、賢い乙女のように、自分は準備ができていると思う?」 と、聞いたそうです。
みな、いろいろなことを言っていましたが、中の一人の神学生は、ちょっとの間、静かに内省して、「うん、ぼくは できてると思うな。」と言ったのだそうです。

 突然に逝ってしまった 仲間の神学生の 最後の美しい言葉、その、いかにも素直な言葉と話しぶりが、ずっと心に残っていて慰めになっている、ということでした。
天国での永遠の命の希望を感じるからでしょう。

 現代にも、聖ドミニコ・サビオのような美しい霊魂があることは、私たちカトリック信徒にとって、本当に 慰めと励ましであるように思います。


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2011年04月16日

死の間際に何をしたいか?


以前 読んだ 聖ドミニコ・サビオの伝記に、こんな話がありました。

 ある日、学校で、一人の友達が、ドミニコにたずねました。
「あと一時間で死ぬとしたら何をしたい?」

 ドミニコは答えました。
「このまま、校庭で遊んでいたいな。」

 友達はびっくりして 目を丸くして言いました。
「そうなの?信心深い 君のことだから、聖堂に行って、お祈りをしたり 告解をしたりしたいのかと思ったよ。」

 ドミニコは何気なさそうに言いました。
「だって、今は休み時間で、皆、外で遊ぶことになってるでしょう?生徒が規則に従っていることは神様の御旨だもの。死ぬ前でも御旨を行っていたいんだよ。」

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 ああ、本当に 神様の御旨を行うことが、いつも最上のことなんですよね。
 このくらい平常心で 死を迎えられたらすごいなあ、と思いました。


 でもやっぱり、聖人ではなく 凡人の私としてはですね、あと一時間で死ぬとしたら、まずは、急いで 神父様の所に行って、しっかり 総告解して、言い忘れた事や、キチンと言わずに ちょっとゴマカシっぽかった事なんかも まとめて言って、生涯全部の 罪の許しをいただいて ほっとしたいですね。私審判の直前ですからね。
 そういえば、誰かが、告解で言う罪の最後に,「この他に、気づかずに犯した罪も、忘れてしまった罪も、すべて一緒に痛悔します。」と言えば万全なんだ、と教えてくれたことがあります。

 それで、もっと時間があれば、できれば 終油の秘蹟 (病油の秘蹟) も 授けていただいて、最後の祝福も いただきたいですね。

 それから、万全には万全を期して、「これを着けている人は 絶対に地獄に落ちない」 という約束のある カルメル山の茶色のスカプラリオを身に着けて、十字架を身に着けて、メダイも何個か身に着けて、聖水で十字を切って、ロザリオを握って、聖堂の御聖櫃の前で 祈りながら 死を迎えたいと思います。^^

 このくらいやってれば大丈夫かな〜。
 あ〜もう、信頼の足りないこと。(^^;

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2011年04月14日

死の間際に何を考えるか。


 以前、聖血礼拝会の修練所(ノビシエイト)にいた頃、ノビスだったシスターから聞いたお話です。

 そのシスターは、九州の島の出身で、カトリックで 子供の多い家庭で育った方でした。
 お父さんは 漁師だったそうです。


 ある日、漁に出たお父さんたちの船が 時化にあい、沖合いで難破してしまったそうです。
 海に投げ出されたお父さんは、板切れにつかまり漂流を続けました。
 いったい何時間たったのか。。。疲れきって、ふと気が付けば、あたりはだんだん暗くなり、夜の気配が近づいていました。

 「もう生きては帰れないだろう」、という恐れで胸が一杯になった時、まっさきに考えたことは、
「自分は娘を一人、天主様にお捧げしている。」ということだったそうです。

 シスターのお父さんはカトリック信者でしたから、
当然、死後 すぐに私審判が始まり、自分の一生が 天主様に裁かれることを知っていました。

 「自分は胸を張って言えるようなことは、あまりしていないかもしれない。。。
でも修道女になった自分の娘が すべてを捧げて 天主様に仕えている。。。」
と、考えることは大きな慰めであり、とても心強く感じたそうです。

 それで、「ああ一人だけでなく、二人でも三人でも、いや子供たち みんなお捧げしたら良かったのに。」と思ったそうです。

 そんなことを思いながら、祈りながら、お父さんは さらに長い長い間漂流し、意識も朦朧としてしまって 溺死の寸前というところで、奇跡的に発見されて救助されたそうです。


 その話を 聞いていた 私たちは皆、
「じゃあシスター、他にもおおぜい シスターやブラザーが家族にいなさるの?」 
と聞きましたら、シスターは ニコニコしながら、

「父は生きて帰ってきて 元気になったら、 
『やっぱりシスターになるのは、一人でよか』 と言ってましたよ。」 
ということでした。(^^;


 それでも、死の間際に、ただ一つでも、「ああ神様のために、これが できてよかった。」 と思えることがあったら、すばらしいですよね。^^


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2011年04月12日

真の希望について考える

 私たちが、肉身をもつ生物体である というだけでなく、「肉身と霊魂を合わせ持つ人間である」 ということを信じるとき、「死」 に対する心構えというのは、全然違ったものになってくると思います。

死んだ後、腐肉となり何も残らないのか、それとも 永遠に不滅である霊魂と共に何時か肉体も復活するのか、後者を信じて 真の希望に生きるのが、キリスト者でありましょう。

 突然の災害で、多くの方々が亡くなられた今、もう一度、この希望を指し示す カトリックの教義について、考えてみたいと思います。

 安田神父様の御本から、以下に引用します。

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 キリストの神性と人生の教義は、受胎告知と処女懐胎の教義によって囲まれているから、今日まで全キリスト教は、聖母の胎内にあるといえる。そして危機が迫ったときに我々信者がおすがりするのは、常に聖母であると言っても過言ではないのである。

 トルコ人が、まさにヨーロッパを征服しようとした、16世紀の恐ろしい大嵐を切り抜けてきたのも、キリスト教徒連合艦隊がマリア様におすがりしたからである。その時、ピオ五世は、レパント海戦の大勝利に対する感謝として、「最も聖なるロザリオ」の祝日を定められたのは適切な処置であった。

 そして今日さらに大きな脅威がわれわれの国境に迫っている時、新しい教義の布告は 幾百万の献身の助けとなるであろう。献身とは、単に愛の表現を意味するものであるが、もし、われわれに十分の愛があれば、献身とは、人間の言葉で言っても、それは勇気を得ることを意味するものである。

 勿論、これは新しい信仰を布告するための論ではないし、教義とは単に古い信仰を確定したものなのである。
 それは、語り伝え(知れた物語や異説を犠牲にして真理の範囲を限定する。)によって支えられている部分もあるのである。

 そして、プロテスタント信者にも、カトリック信者にも、共に認められた教義、すなわちキリストの神性、人生と、三位一体の教義は、公教会内の異説を排除するために定められた教義であった。


 現代では聖母の被昇天に関して、教会内に異説があるという明らかな証拠はない。だから被昇天の教義を布告する必要はないと信じているカトリック信者もいる。しかし、今日のカトリック信者は、現代の一般的な異説すなわち 個人の非重要性という説に 接しないわけにはいかないのである。

 今日、われわれ人間の肉身は、消耗する物質、原子爆弾で大量に除去されるべき物、一種の名もない腐肉であると考えられている。
 第一次世界大戦後、連合軍でも敵でも、死者の横たわる場所には十字架が立てられ、無名戦士の墓の上には、ヨーロッパ首都に於いて、絶えず灯りがともされていたのである。ところが、今日、ロンドンやベルリンの死者が埋葬されている共同墓地を標す十字架は一つもないのであって、広島の記念塔は、原爆によって 人体の影だけ存在しているだけなのである。

 これらは、十字架が立てられていようと、十字架がなかろうと、人間は消耗する物質、大量に除去されるべき物質、腐肉であるという考え方の結末を現しているのである。


 聖母の被昇天の教義は、人間としての肉体をもった聖母が、キリストに次いで再び、われわれ人間の肉体の永遠の運命について宣言したものであろう。それはまた、われわれ人間の甦りを 明らかに示し支えとなっている、聖母マリアの歴史でもある。

 キリストの復活は 神の復活と考えられるが、聖母の甦りは われわれ一人一人の甦りを示す前兆なのである。


「聖母マリアと被昇天」 安田貞治著 平成19年 緑地社発行
213〜215ページより引用




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2011年03月12日

緊急の場合の洗礼

 1973年の10月13日、秋田の聖母像の声によって与えられた、第三のそして最後のメッセージのなかに、以下のような言葉があります。

「愛する娘よ、これから私の話すことをよく聞きなさい。そしてあなたの長上に告げなさい。
前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰をくだそうとしておられます。そのときおん父は、大洪水より重 い、今までにない罰をくだされるに違いありません。火が天から下り、その災いによって、人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々をうらやむほどの苦難があるでしょう。
そのとき、私たちに残る武器はロザリオとおん子の残された印だけです。毎日、ロザリオの祈りを唱えてください。...



 紀元2000年を 過ぎた頃から、「この言葉は、実現しなかった。」 といったような意見を聞くようになりました。
 が、秋田の聖母様のメッセージにも、天使のメッセージにも、「2000年までに、」 とか、「今世紀中に...」 とかいうお言葉は、まったく無いのです。このような意見を言われる方は、他のいわゆるメッセージといわれるものや、ノストラダムスなどと、混同しているのかもしれません。
 
 このお言葉は、まだ実現していませんが、真実の予言であるならば、いつの日にか実現してしまうでしょう。もちろん、「もし人々が悔い改めないなら」 という 条件付きですが。

 たしかに、2000年くらいから、人々は、この深刻な予言について、気にしないようになり、現在は半分忘れられてしまっているのかもしれません。 けれども、その日は、次第に近づいているのです。

 もし、このような災害が起こり、緊急の事態になった時に、身近にいる家族や友人が望むならば、洗礼を授けたいと思われるかもしれません。
 
 そういった時に、緊急の場合は、司祭でなくても、洗礼を授けることができるという事を、憶えていていただきたいと思うのです。


 公共要理から、以下に引用します。
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洗礼を授けるのは、誰でありますか?

洗礼を授けるのは、普通、司教か司祭であります。しかし必要の場合は、誰でもこれを授けることができます。
死に臨んだ未信者に洗礼を授けるのは、他人の霊魂を救うことでありますから、信者はこれをゆるがせにしてはなりません。
(大人の洗礼については付録参照。)

洗礼を授けるには、どのように致しますか。

洗礼を授けるには、本人の額に水を注ぎながら、
「我、聖父と 聖子と 聖霊との御名によりて 汝を洗う。」
(われ、ちちと こと せいれいとの みなによりて、なんじをあらう。)
と、唱えるのであります。(マテオ28・19)


<付録>
死に臨んだ未信者に洗礼を授ける時に、教えねばならぬ事柄は何でありますか。

この際、教えねばならぬことがらは、

1、霊魂の不滅、天国の幸福と地獄の苦しみ、罪の赦しを受けなければ天国に行かれないこと。

2、天主の存在、三位一体のこと、第二位は人となり、十字架に付けられ、人々の罪を贖い給うこと。

3、救い主に依り頼むこと、天主を愛し奉ること、生涯の罪を痛悔すること、罪の赦しを得て天国に行くために洗礼を受けなければならないこと、


などであります。これらを一々に説明する暇も無く、また、病人もこれを理解する事ができぬ場合には、せめて

1、霊魂の不滅と死後の賞罰、
2、天主の存在、
3、一生涯の罪を心から痛悔すること、

を 教えねばなりません。


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昨日、この記事を 準備している時に、日本で大地震があったことを知りました。
亡くなられた方々のために、お悔やみ申し上げます。
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