2012年02月05日

聖ヨゼフのお餅屋さん?


 固い話が続きましたので、やわらかくて、甘くて、おいしそうなお話をひとつ。

 秋田の聖体奉仕会での誓願式のお祝いの日の出来事です。

 準会員連絡誌より引用します。

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 湯沢台だより

 ー甘い思い出ー



 もう十年も前のことになるでしょうか。あれは、ある姉妹の終生誓願式のことでした。

 式後の祝賀会の準備に 台所で忙しく働いているひとりの姉妹のところへ、院長が来て言いました。

「お祝いのお料理のほかに、紅白のおまんじゅんでもあったら良いのだけど」


 台所の姉妹が、お客様の数も多いのだし... もう少し早く言って下されば注文しましたのに、と答えると、院長は、

「そう。でも何とかならないかしら。せっかくのお祝いですものねえ」

と、いかにも残念そうでした。


 そこへ 別の姉妹が入ってきて、

「ものを売りにきたおじさんが玄関にいますけど、どうしますか」

と告げます。行ってみると見慣れぬおじさんが立っていて、

「大福モチいらないすべか」

と言うのです。差し出された木箱をのぞくと、紅白の大福がずらりと並んでいます。



mochi.jpg


 驚いて見入る姉妹におじさんは、

「今まで こごさ来たごとねがっだども、きょうは何となぐ来てみでぐなったすものナア」

 と 照れ笑いをうかべます。


「いくつあるんですか?」

「五十(ごんじゅ)だ」

(まあ、数もピッタリ...)

「では、全部いただきます!」


 きょうはお祝いがあって ちょうど欲しかったところだったと話すと、おじさんも、

「何とみんな売れて良がったス」

と、空箱をふりふり 足音も軽く帰って行きました。


 おじさんが来たのは、あとにも先にもその一回だけでした。

 今でもあの日のことを思い出すたび、食指も踊るのです。


聖体奉仕会準会員連絡誌「虹のたより」2000年クリスマス号より引用


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とっても嬉しくなるようなお話ですね。

これを読んだとき、まずは、

「聖ヨゼフ様かなあ」

と思いましたけど、大工さんであった聖ヨゼフ様が、

ロレットの階段を作られた、というのは、ピッタリきますけれど、

大福を作られた、というのはなんとなくピンとこないですよね。

お餅をついてるヨゼフ様って、ステキですけど想像しにくいような気がします。

東北弁も板につきすぎてる感じだし...


やっぱり、東北のキリシタンの誰か、もしか殉教者の中に、

お餅つくりの上手な方がいらしたかも...ですね。(^^)

(写真は管理人によるイメージ写真です)


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2011年05月19日

貧しい修道会を愛された聖母マリア(その5)

前回からの続きです。

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(続きの引用開始)

D: 「聖マリアの家」 の竣工を祝う御ミサが、同じく59年のクリスマス。あれからもう9年もたつとは...。

B: 最初の準会員の...(個人名省略)...奉献式から20年。

C: マリア様の出来事をはじめ、すべてが 昨日のことのようですけど...

A: このたびの新修道院の落成は、内輪の小さな祝いを考えていましたが、昨年10月の準会員の集いのとき、伊藤司教様が 「マリア様の出来事からの丸20年」 の記念を兼ねて お祝いの行事にしたら、とつよくご希望されたので。

B: 準会員の多くの方々が発起人となって、熱心に お話を進めて下さるのを見聞きするにつけ、感謝の気持ちで いっぱいになります。

C: 皆様のお祈りと お励ましのおかげで、私たちには もったいないような住居が出来上がって、それこそ 夢のようです。

D: もう 今年からは 大雪にも ビクビクしないですみそうね。

G: 漏電の心配もないし...

F: そういえば、寿命の来た水道管も、白アリに攻められた柱も、よくここまで ガンバってくれましたよね。

E: これからの20年、私たちも 主の御光栄のため、聖母のお導きのもとに がんばらなければ!

C: すべては神様の御摂理、と ただただ感謝ですね。

A: そして 皆様の御支援に感謝しながら、今は天国の 伊藤司教様や、池田・海津姉妹をはじめ、亡くなられた準会員の方々のお見守りのもとに、このたびの記念式典を お捧げしたいと思います。

(終わり)

月刊準会員連絡誌 「湯沢台の聖母」 聖体奉仕会編集 1993年8月1日号より引用

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 この新修道院の落成式は、準会員制度20周年の記念のお祝いと一緒に、平成5年(1993年)7月25日に 執り行われました。
 
 当時、教区長であられた 佐藤敬一司教様はじめ、長年 聖体奉仕会の指導司祭であられた 安田貞治神父様、アルマン・ドモンテイーニ神父様、オスワルド・ミューラ神父様、小坂正一郎神父様、庄司篤神父様、林忠実神父様、山本克己神父様、聖職者8名と、全国から信者の方々約400名が集う 盛会だったようです。

 台風の接近が 心配されたにもかかわらず、この日は みごとに晴れ渡ったそうです。思えば この頃が、秋田の巡礼地としての 最盛の時期でした。

 次回は、この記念式典での、佐藤司教様の すばらしいお説教をUPしたいと思います。


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2011年05月18日

貧しい修道会を愛された聖母マリア(その4)

前回の続きです。

この記事には、とてもたくさん写真が載っているのですが、お見せできないのが残念です。

今回UPした分には、

「井戸掘り開始の祝別式」(昭和58年6月)

「変身へと召された古い農家」

「旧司祭館」取り払われた跡地に聖マリアの家が建つ (玄関あたりが旧館の位置)

「聖マリアの家」聖体奉仕会準会員会館 (昭和59年竣工)

「毎日せっせと古材洗い」

「晴れ間を待って雪おろし」

などの写真があります。
          
シスター方は モンペやジャージに長靴姿で、帽子やほっかむりをして古材を洗ってます。
みんな、一生懸命だったあのころが懐かしいです。

私は残念ながら、聖体奉仕会のアユは食べたことがありません。
私がシゲシゲと行っていた頃はもう少し前だったので、そのころの豪華メニューは、野草の天ぷらや、めしべを抜いた椿の天ぷらなどでした。^^


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(続きの引用開始)

B: 私にとって忘れられないのは、お水がなくて困ったこと。冬は凍てつく寒さで水が出なくなるし、猛暑の夏は水が涸れるし...

A: そう言えば、お風呂は支部会員のところで入ったり、洗濯はコインランドリーに通いましたね。あの経験で、水の尊さを身にしみておぼえました。

C: そういう水不足のなやみを解消するために、井戸掘りが何度も行われたわけ。もうこれ以上掘っても無駄、と業者から言われながらの作業の末に、湧き出たのが温泉で...。
作業員が「しょっぱい湯ッコ出た」 と、がっかりしていたけれど、日に500トン湧き出る温泉でお風呂が十分まかなわれて、その分飲み水に回ることになって、とても助かりました。

F: その後、現在のヤコブの井戸が新たに掘られて、マリア庭園のヨルダン川にアユ二千匹が放流されましたよね。

B: それからというもの、食卓には毎日アユが出て、お客様をびっくりさせて...

G: 塩焼きだけじゃなくて、アユずしとかフライとか、豪華メニューを誇っていたけれど、そのうち私たちには、あのせっかくの香りも鼻についてきて...(笑)

A: 一方では巡礼者の数もふえつづけて、修道院だけではお泊めできなくなってきて、宿泊所がほしいという準会員の声が あちこちから上がりはじめた。それに応えて 神父様がこの山にふさわしい家をと 見つけて下さったのが、百二年も経つ 農家の空き家でした。

G: それを解体して、望月神父様の頃からの司祭館を取りはらって、その場所に組み立て直して、準会員会館の誕生!

F: でも、元の写真(前ページ)からみると すごい変身ですね。

E: たしかに お化粧だけでも大変でしたね。柱なんか、準会員の方たちと みんなで洗いましたね。煤(スス)や馬糞を タワシでこすりおとすのが大仕事で...(笑)

A: その会館の名前を ”湯沢台の聖母”誌で公募したところ、たくさんの応募があって...

B: いろいろ 苦心のお作がありましたよ。
「牛舎のいほり」とか 「涙の聖母道場」 とか...

D: いわゆる厳選の結果 「聖マリアの家」 がえらばれました。

C: その年、昭和59年は、2月17日に温泉が出て、3月に願い通りの農家がみつかって、4月22日の復活祭には、伊藤司教様が 「湯沢台の聖母像に関する司教書簡」 をもってマリア様の出来事を公認なさる、という、大きなお恵みの年でした。

D: 「聖マリアの家」の竣工を祝う御ミサが、同じく59年のクリスマス。あれからもう9年もたつとは...。

(つづく)

月刊準会員連絡誌 「湯沢台の聖母」 聖体奉仕会編集 1993年8月1日号より引用

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2011年05月17日

貧しい修道会を愛された聖母マリア(その3)

 前回の記事の続きです。

 ルルドのベルナデッタも貧しかった。
 ファチマの牧童たちも貧しかった。
 そして聖体奉仕会の姉妹たちも...

当時の姉妹たちの、清貧と平和な喜びに満ちた雰囲気を 感じていただけたら、と思います。


秋田の聖母のお言葉:
「貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。各自の能力、持ち場を大切にして、そのすべてをもって捧げるように。」


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(つづきの引用開始)

A: 48年の6月に 望月神父様がここをお離れになってから、私たちは毎日「神様のお望みの指導司祭をお与え下さい」と祈りつづけましたね。そしたら、翌年の3月に、伊藤司教様が 安田神父様をお迎え下さいました。

D: みんな大喜びだったけれど、こんなお粗末な ”修道院” に よく来て下さった、ともおもったわ。

E: 前の年に マリア様の出来事がはじまって、巡礼者が だんだんふえてきた時だったので、「皆が黙想できるような庭をつくろう」 と、安田神父様がおっしゃった、それがマリア庭園の起こりですよね。

D: みんなで 男鹿半島や 太平山のふもとに行っては、お庭のための石をひろって、車のトランクに積んで帰ったわね。

A: 村の人たちも 庭づくりの荒仕事を、よく手伝って下さいましたね。

B: それでも資金の面では、神父様、ずいぶん苦労なさった。

F: もう危機一髪ということが、たびたびあったとか...

D: ところがそのたびに、思いもよらないご寄付がとどいたの。

C: そしてついに、(昭和)51年の9月14日、十字架称賛の祝日に、あの日本列島をかたどった お池の秋田の位置に、マリア様の御像が安置されるに至りました!

B: 10月の開園式は、だれも忘れることのできないような日でしたね。ものすごく寒くて、おまけに雨風が強くて...

D: いまはバラのアーチになっているところに、青いビニールシートをかけて、2百人あまり、身動きもできない状態で、御ミサにあずかったの。でも、そのあと、雨の中を 祝賀会の準備をしていても、ふしぎなことに 誰も何も濡れなかった!

C: そうそう。手伝って下さった方たちも、そのことには とても心を打たれた様子でした。

A: あのどしゃ降りには がっかりしたけれど、あとから ふり返ってみると、”これからの試練に耐えるように” との 神様からの きびしい お励ましだったような 気がしますね。

F: ところで、神父様が マリア庭園に、名木のほかに、いろいろ食べられるものの生る木を植えてくださったのは、とても ありがたいことだった、と 今おもいます。

E: そう、柿とか栗とか、ブドウ、スグリ、コハゼとか...

G: あの頃 たのしかったのは、なんと言っても、みんなで山歩きしたこと。初めは 望月神父様が、 「修練」 と言って 山歩きを教えて下さったけれど、安田神父様も 山がお好きで、修練と実益を兼ねて、食べられる物を 何かと見つけて下さった....

B: なにしろ、姉妹のひとりが働きに行っていた お豆腐屋さんからもらった オカラやアブラゲの屑ばかり食べていたから。

E: 春はアザミ、フキ、いろいろの山菜とり。 山から帰ってのフキの皮むきなんか、いつも 「聖家族のうた」 を歌いながら、でしたよね。

C: 神父様が大きな鉄鍋で、フキをゆでて下さって...なんだか お父さん役も お母さん役も 兼ねていらした感じでしたね。

F: それこそ、霊的糧ばかりでなく、何かと 「食べさせて下さる」 司祭でしたね。

E: 車に乗っていても 「あ、あそこにキノコが」 と、見つけて下さったり...

D: 神父様の釣っていらした魚が貴重なタンパク源になりましたよね。

F: イワシ70匹が釣れた日は、神父様 大得意で、タクシーで帰っていらした!(笑)

G: 食べ物の話に 急にみんな雄弁になるなんて、一番つらかった記憶が ここに集中してる証拠かもね。(笑)

B: 私にとって忘れられないのは...

(つづく)

月刊準会員連絡誌 「湯沢台の聖母」 聖体奉仕会編集 1993年8月1日号より引用

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2011年05月16日

貧しい修道会を愛された聖母マリア(その2)

 以前は、聖体奉仕会の準会員のために月間の連絡誌があり、毎月楽しみに読んだものでした。
平成4年の準会員制度20周年のお祝いの頃の記事に、めずらしく姉妹方が登場なさり、昔のようすをお話下さっていて、とても興味深いので、少々引用させていただきます。


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はるばる二十年(はたとせ)−かえりみる ひととき−


過ぎてみれば瞬く間の二十年、とはいえかずかずの思い出に満ちた日々を、古参の姉妹七人がこもごも語り合いました。


A: 準会員の制度ができてから、もう二十年もたったわけですけれど、この間にはずいぶんいろいろな事がありましたね。

B: まず私たちの生活事態が変わってきたでしょう。二十年前といえば、まだ自給自足の生活でしたよ。 朝食には、カボチャのとれる時期には 毎日カボチャ、ジャガイモの時期には 毎日ジャガイモでね。 ふかしたり煮たりして食べたものでした。

C: それらの時期以外には、当時お導きくださっていた 望月神父様のおすすめで、玄米食でしたね。

D: お隣りの牛舎を手伝って、、牛乳を もらったりもしたわ。

E: よく大きな牝牛たちがやって来て、お聖堂や食堂のガラス戸に 顔を押しつけてのぞいていましたよね。

F: そこで一人が外へ出て、古バケツを カンカン叩きながら 牛たちをぞろぞろ牛舎へ誘導したりして。

B: もっと前には、養鶏をしていたことも あったわね。あなたが いつも町に卵を売りに行ったものね。運転ができるから。

A: ええ。昭和48年に、マリア様の出来事が起きて、だんだん 巡礼者がいらっしゃるようになってからは、あの鶏小屋を改造して、男の方々の泊まるヨゼフ館をつくりましたね。
今ではそこが司祭館ですが。

E: 私、あの最初の準会員が生まれた 昭和48年8月のことを知りたくて、当時の”姉妹通信”を見ていたら、伊藤司教様の こんなお言葉をみつけました。 
「バチカン公会議の典礼憲章を実行に移し、教皇様のご意志に添うために、”聖体の十字軍” のような運動を起こし、熱心なリーダーを養成しなければならない。そのリーダーに当るものが、準会員ではないだろうか。」

C: つまり、リーダーとして各教会に散って、社会のパン種になる、ということでしょうね。

A: 今でこそ、海外に 約3千人、国内に 約3千百人とずいぶんふえましたけれど、あの頃は、準会員制度が どんなふうに発展していくのか、まったく予想がつきませんでした。

C: なにしろ、その日その日を お捧げするだけで、精いっぱいでしたものね。

B: 貧乏ひまなしで、みんな すごく忙しかった。外に働きに出ていた姉妹たちも、中でくらしていた姉妹たちも。 Dさんは学校に勤めていたわね。 Cさんは、ここで和服を縫ったり、編み物をしたり、ビーズのバッグを作って、I さんが売りに行った。

G: 私が初めてここを訪れたとき、Aさんが 赤いTシャツに長靴姿で 畑から歩いてくるのを見て、びっくりしました。こんなシスターもいるんだわ、って。でも感激しました。貧しい生活に憧れていたから。

C: 私も 貧しい生活をしたいと思っていたので、初めて来たとき 「ああここだ!」 という感動がありました。 それこそ、電話も テレビもない生活で、食べ物も...

B: まず戦後そのままだったから...

C: 入会してすぐ香部屋係を任されたけれど、祭壇のロウソクさえ買えない状態だったので、私は屑ロウソクを集めて 再生ロウソクを作りました。当時 秋田教会の主任でいらした ベッケル神父様が、屑ロウソクを ダンボール箱に取っておいては、私たちに下さったのが ありがたくて。

A: 48年の6月に 望月神父様がここをお離れになってから、私たちは毎日「神様のお望みの指導司祭をお与え下さい」と祈りつづけましたね。そしたら、...


<つづく>

月刊準会員連絡誌 「湯沢台の聖母」 聖体奉仕会編集 1993年8月1日号より引用

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2011年05月04日

貧しい修道会を愛された聖母マリア

 
秋田の聖母の いろいろな奇跡があったころは、聖体奉仕会は 本当に貧しい修道会でした。

 現在の、美しいマリア庭園と 立派な和風聖堂しかご存じない方々には 想像もつかないほどであろうかと思います。

 安田神父様の御本より、1975年ごろに、秋田を訪れた ある神父様の印象を記した部分を 以下に引用させていただきます。 そのころの会の様子がよくわかります。

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 ......

 カトリック・グラフが創設した、カトリック国際文化交流会なるものがありました。グラフの企画によって、同会員による秋田の聖母巡礼団がつくられ、恵美師がその団長として、それに参加することを余儀なくされたのです。 師は その時の心境を 次のように言っています。


「 団長役を依頼され、会長である以上 否と言いがたく、私はその役を 引き受けてしまった。もの好きな奴も いるものだ。 不思議な 涙や血が マリア様の 本当の涙、血と判定されてから 巡礼を企画しても遅くないのに、という声が あちらこちらから 聞こえて来そうだった。」


 聖母像にまつわることについては、まだ教会当局の 正式な調査も始まっていなかったころで、あんがい のんきなものがあって、巡礼についても 自由で大らかなところがあったのです。

 そのころは聖母像も 聖堂内の祭壇のそばに 置かれていました。


...中略...

 聖母の出来事を 半ば疑いつつ訪ねた 師の目に映った 湯沢代の修道院風景は、およそ次のようなものでした。


「われわれが 見なれている修道院とは 縁遠い感じのする 質素なたたずまいであった。いかめしい垣も門もない。ただ平野にわびしく建っているのは、木造モルタル造りの二階家の司祭館らしきもの一軒、庭らしい庭もなく、植木らしい植木の一本もなく、自然に生えた数本の木々の間に、無精ひげ然と枯れ草が力なく生い茂るだけ。全く外観おかまいなし、荒れ放題と言えるものであった。またシスターたちにしても、生活力なしと 判定したくなるほどであった。黒っぽい平服を着た おばさんたちであった。多くの人に、神のみむねを知らせるために、マリア様が奇跡をなさるのなら、何もよりによって日本の僻地、しかも精力なきシスターなどのところでなく、東京の真っただ中でなさればいいではないか、と言いたくなるほどであった。」


 以上は外観のことでしたが、精神的なものにしても、何ら取りえのないものであることを、次の言葉に託して述べています。


「修道女の 心のよりどころである聖堂とあれば、さぞかし 精魂をこめた 立派な聖堂であろう と思って入って、またびっくり。それは横三間、奥行き五間ほどのもの、その聖堂の小さな壁は すべて安っぽい プリント合板、しかも 聖櫃の上の板が 一枚 はずれかかっている。床は畳敷きで、座ぶとんが敷きつめてあった。内陳などはなく、祭壇の右側の角に 例の聖母像が 安置されているのだ。安田神父の説明によれば、遠くから、巡礼者が来られると、マリア像から芳香が流れてくることがあります。今日も幾分か感じられますと言われてみれば、気のせいかも知れないが、香ぐわしいかおりがするのである。」


 以上が大体、恵美師の最初の印象でした。わたしは師の意見を否定するものではなく、今もって まことに そのとおりであるといえます。

 神は どうして それらをかえりみ給うたのか、不思議であります。

 人知の及ばないところでありましょうか。



「奇跡と涙 (続・秋田の聖母マリア)」 安田貞治著 緑地社発行
第九章 聖母の涙の結末 (9.芳香のしるし) 192〜195ページより引用


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2010年05月29日

秋田のマリア庭園 その3

昨日のつづきです。
今日は、地鎮祭から開園までの、いろいろと興味深いお話です。

安田神父様が、祈りつつ、労働しつつ、ご尽力なされた様子が良く伝わってきます。また、聖母マリア像のお顔の変化や、御涙や芳香といった奇跡と同時進行で、聖母さまがこの庭園の造園を喜んで見守っていらっしゃるようです。

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開園まで

 一九七四年の五月一日以来、マリア庭園の構想を練りはじめたとはいうものの、すぐさま まとまった形に なるわけではなかった。それでも私は、姉妹たちとはかり、五月三十一日の聖母御訪問の祝日を期して、地鎮祭を行うことにした。

 ところがその前日にふしぎなことが起こった。前晩の祈りのため聖堂に入って私も着座したとき、突然姉妹のひとりがふり返って「マリア様のお顔が変わっています」と上ずった声で告げた。はっとして仰ぐと、たしかに御像の顔の部分だけが、全体からきわ立って赤黒く、彩色されたかのように変色している。
 一同の動揺を感じた私は、いつもと同じ態度をとり、今は黙って祈るべき時である、という様子を示した。

 聖堂を出てから姉妹たちは、それぞれ受けた同じ印象を語り合っていた。
 今あらためて回想を求めてみたところ、姉妹笹川はこう答えた。「御像から泌み出るおん汗をぬぐったり、おん手に傷を見たりしたときは、木の御像なのに… というショックをまず感じました。でもこの時は、“御像は活きていらっしゃる!”という印象を つよく受けました。御衣と髪の部分は 白っぽい木地のままなのに、そこから脱け出ているお顔と両手と両足だけ、陽やけした肌のように、くっきり赤黒く色づいています。それも、色が黒い、といううす汚れた感じではなく、美しいつやを帯びたいきいきした赤黒さでした。ああ、生きていらっしゃるお母さまなのだ!という喜びにみたされたことを、おぼえています」

 この時の変化は(両手の部分をのぞき)多少 色がうすれたものの、今も残っている。先年、これを手がけた 彫刻家の若狭氏が見に来られた際、木彫のある部分一帯が変色することはあっても、このように特定の個所だけがくっきり彩られたように色を変えることは自然では考えられない、と驚いておられた。また顔の表情など、製作した時とは異なってきている、と不審を洩らされたのであった。
 このお顔の表情が、その時により、見る人により、いろいろと変わることは、かねて人々のうわさする通りである。撮られた写真にも、同じ御像か、と思うほどの表情の違いがみとめられるのも、ふしぎの一つである。
 
 五月三十一日の地鎮祭の当日は、開拓時代からお世話になった村の人々、隣の日境寺の尼さん、秋田教会関係の有志を招き、会の姉妹たちとその親族、また遠くから はるばる馳せ参じた支援の信者たちを交えて、三十名あまりが参集した。やがて 聖母の石像が立てられるはずの空地に設けた仮祭壇をかこんで、ささやかな行事が行われた。

 私は前おきとして、ここに聖母をたたえて日本庭園をつくるのは、皆様をはじめ日本全国、のみならず 世界のはてからも人々が集まって祈る、マリア庭園なるものを願ってのことであり、本日 その地鎮祭を行うわけである、というような挨拶をし、祝別の祈りを唱え、土地に最初の鍬を入れた。参加者も次々とスコップをにぎり、穴に土を入れた。穴の底には、“奇跡(ふしぎ)のメダイ”を深く埋めておいた。
 この日は晴天であったが、風が強く、祭壇の白布が飛ぶほどだった。
......

 次の段階として精出したのは 庭園づくりに必要な大小の石あつめであった。 会の車で、姉妹たちと 太平山のふもとの河原や 男鹿方面へ出かけ、拾った石をダンボール箱につめては持ち帰ることを くり返した。そのうち、ある人の紹介で永井さんという格好の助け手を得、鳥海山麓の小砂川という所から、二百個に余る石を運搬することができた。しかし姉妹たちの手が離れたわけではない。石の重さに車輪が、庭園まで あとひと息の所で路肩から落ちる。元気な者は手を貸しに駆け出し、あとの者は「お祈り!」と呼び合って、聖堂でロザリオを唱えはじめる。と、ブルドーザーが通りかかり、絶望的状態から救ってくれたこともあった。
 こうして秋には、永井氏が庭園予定地にブルドーザーを入れ、地ならしを始めるようになった。

 冬の間は、戸外の作業ができないので、内にこもって英気を養い、雪の消えはじめる三月を待って、本格的な活動を開始した。造園に協力される農家の人々にまじって、私も労働服を身につけ、雪や雨にうたれ、風や日光にさらされながら、スコップをふるい、猫車を押してまわった。
 こうして力仕事に身を投じることによって、私は労働の意義を深くさとらされた。キリストが十字架を背負ってわれわれの罪をあがなわれたことも、最大の重労働ではなかったか。そう思えば、ひたいや背筋を流れる汗の玉にも、宝石のような価値を 感じとれるようになった。聖書によって 神のみことばを読み 黙想するのも大切な業であるが、労働の苦しみによって 心身ともに聖言を学ぶことは、一層身に泌みてキリストの愛を悟り、一致に導かれるのではなかろうか。
 これも聖母にささげる庭園づくりの ささやかな努力への ひとつの報いと感じられたのであった。

 作業が順調にすすみ、1975年の七月を迎えたころ、会計係の姉妹から 首筋に冷水を浴びせられるような報告を受けた。
「神父様、働き手に今月の労賃を支払うと、あと何も残りません」
 私は平静をよそおい、「姉妹の皆さん、よくヨゼフ様に祈ってください」と言った。そして心の中では、来月はちょうどお盆が来るから、働く人たちに、この月は労働を休みましょう、と告げることにしよう、と考えていた。
 ところが意外にも、その月末には、ある奇特な方から「自分で実地に手つだいのできぬ代わりに」と、数百万円の小切手が送られてきたのであった。
 このように 文字通り天から降って来たような救援の手に支えられたのは、一度や二度のことではなかった。ともあれ、マリア庭園の作業は、常にとどこおりなくつづけられたのである。

 
 こうして作業が三年目の1976年に入った、その五月末から六月にかけてであったと思う。一方で、聖母像のふしぎな現象について、伊藤司教の依頼により、調査のメスが入れられる運びとなった。(この章では、マリア庭園に関する点にのみ、ふれておくが)
 調査委員会の一員で、姉妹たちに黙想の指導をするとの名目で乗り込んで来た人が、マリア庭園の作業を目にした。私はちょうど教会の依頼による講和のため不在であった。で、その委員は姉妹たちに 次のように説教された。「マリア像におこった ふしぎな現象は、超自然的な恵みではない。ただ姉妹笹川の超能力によるものであるから、これをもって世間をあざむいてはならない。そしてマリア庭園を造るなどは、宣伝行為であり、さらに人をだますことになるから、ただちに止めるべきである……」
 私がこれを知ったのは、帰って一週間もたってからで、姉妹たちから遠慮がちに知らされたのである。これを聞いておのずと頭にうかんだのは、あの守護の天使の言葉であった。「そのよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう」と。この予言が次々と実現されるのが、明らかに予感されるのであった。

 私はなにも、聖母像の現象と結びつけて、庭園の構想をいだいたおぼえはない。ふしぎな出来事を記念するために、などと思いもしなかった。ただ、静かに黙想しつつ祈れる場所をつくり、それを聖マリア崇敬のために奉献したい、と考えただけであった。どんな力によって聖母像に不思議が起こったにせよ、それとは別問題であった。
 そんな筋ちがいの非難をあびせられても、造園作業は断固つづけることにした。が、私もふつうの人の子である。心がふさぎ、一時は断念しようかと思ったことも、ないわけではない。


 その秋の十月、多くの貴重な援助に支えられて、ついに“マリア庭園”なるものが、ほぼ出来上がった。
 1976年十月十一日、市長をはじめ各方面の名士と遠近からの協力者をお招きして、開園の除幕式を挙行した。このたびは二百余名の参加者を数える盛会となった。 その時のあいさつの中で、私は庭園の案内を次のように述べた。「庭園のかなめとなっているのは、聖母像の立つ、日本列島の形の池であります。その背後の築山から滝が流れており、それはカルワリオ山のキリストの十字架の泉から人類救済の恵みが流れてくる表徴です。その恵みの水が、すべての聖寵の仲介者である聖母を通して、日本全土に注がれる、という表現をとっております。庭園の中央にある芝山は、まろやかな平和を表す丘陵と見なされ、キリストの山上の垂訓をも偲ばせるものです。列島をかたどる池は、九州と北海道の部分が、二つの橋で本州と区分され、ヨルダン川の流れが北海道の上手に流れ込むようになっております。
 まだ花は見られませんが、南側のアーチはやがてバラに蔽われ、それにつづいて梅林がひろがります。
 門構えは、樹齢二百年近い天然の秋田杉二本を用いて門柱とし、時代おくれと見られるかもしれませんが、茅葺(かやぶき)の屋根をのせました。それは庭園に荘厳さと神秘性を加えるようにと、考案したもので、“天の門”と名づけました。
 中央の芝山も日本列島の池も、回遊式につくられ、庭園内に入ればどの場所にいても、ロザリオの祈りと黙想ができるように工夫したつもりです。
 借景として太平山を間近く眺められるように配慮し、その春夏秋冬の美しい眺望を妨げるような樹木は、植えつけないことにしました。
 庭内に移植された木々の種類は、約百種に近く、昨年の秋から今年の夏までに植樹されたものが大部分ですが、九十九パーセントが根着いております。これらの樹木が数年後にはどのような美しい容姿を呈することか、日本各地からの心のこもった聖母への献木であるだけに、たのしみな見ものであります。……」

 三年間にわたって、北海道から九州の果てまで、まさに日本全土から、聖母の光栄のために寄せられた援助は、おどろくべきものであった。それらの期待にもこたえるべく、私たちとしては全力を傾けたものの、なお不足や不備はまぬがれず、心苦しく思っている。
 とにもかくにも試練の年月を一応くぐりぬけた今、“多くの困難と妨げ”があろう、との天使の予告があらためて思い合わされ、“内なる一致をもって信頼して祈る”ようにとの勧告が、さらに将来への指針として、胸にあらたにひびくのである。


(引用終り)


ー日本の奇跡ー 聖母マリア像の涙 安田貞治著 エンデルレ書店
  178〜187ページより引用


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posted by テレジア at 01:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖体奉仕会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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