2017年09月09日

聖母マリアのお誕生日にミサに行きました

9月8日は、私たちの愛する聖母マリアさまの御誕生の祝日でしたね。

うちの教会では、午前8時と夕方6時の歌ミサと二度、御ミサがありました。

ミサ典書より引用します。

。。。。。

典礼において聖人誕生の日とは、死去の日(来世に新たに生まれた日*管理人注)のことであるが、原罪なくして生れた聖母の場合は、死の日ではなく、誕生の日である。

 聖マリアは、創造の朝の、そのすがすがしさに似て美しく、

 正義の太陽を告げる暁のようである。

 永遠より予定せられ、ダヴィド王家に生まれた聖マリアは、

 天と地を結ぶ橋である。

。。。。。。。


聖マリアの両親.jpg


 聖マリアの誕生日は、御両親の聖ヨアキムと聖アンナの喜びの祝日でもあります。

 画像を検索していて気がつきましたが、聖母マリアと御両親の絵で、聖母マリアが赤ちゃんのものは、イコン風のものがほとんどです。
 
 東方教会では、この聖なる家族への信心が大きかったのでしょうか?


この良き祝日をすべてのカトリックの方々とお祝いしたいと思いました。


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posted by テレジア at 10:31| Comment(8) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
9月8日に四ツ谷のドン・ボスコで『復刻版・極みなく美しき声の告げ』(2015年3月20日発行)を見つけ、購入し、読了しました。以前から気になっていたのですが、秋田の聖母のメッセージの「その時私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残された印だけです」の御子の残された印について安田神父様は「聖体の中に現存するイエズスへの尊敬と償い、犠牲的愛の信心」と書かれています。御子の残されたしるしとは御聖体のことなのでしょうか?

「その時私たちに残る武器は・・・」の直前には「火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死に、司祭も信者と共に死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人を羨むほどの苦難があるでしょう」とあります。司祭も死んでいるそのような時に御聖体が武器となるほど各地に存在しているのでしょうか。仮に存在していたとしても、謙遜なマリア様が御聖体を差し置いてロザリオを先に持ってくるでしょうか?

御子の残された印とは御聖体ではなく、磔刑像あるいは十字架のしるしなのかなと思っていますが、テレジア・マルガリータさんはじめ皆さん、どのようにお考えでしょうか。ご教示いただければ幸いです。
Posted by ジーン福岡 at 2017年09月09日 22:36



ジーン福岡さま、

「極みなく美しき声の告」の復刻版が出ていたのですね。知りませんでした。
ドン・ボスコ社の発行でしょうか。

秋田の聖母のメッセージの「その時私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残された印だけです」の御子の残された印の解釈については、主に二つに意見が分かれているようです。「ご聖体」の印 という解釈と「十字架」の印という解釈です。

私は、個人的に自分なりの解釈がありますが、とても長くなりそうなので、また改めて書こうと思います。
この事は、秋田のご出現の真の意義が込められている、とても大事な部分だと思います。

>謙遜なマリア様が御聖体を差し置いてロザリオを先に持ってくるでしょうか?

とても鋭いご指摘で、この順序にも意味があると思います。

コメント感謝いたします。
Posted by テレジア マルガリタ at 2017年09月10日 00:52



おはようございます。
テレジア・マルガリタ様。
コメントを書き込んでいる方のメッセージを読み、コメントさせてください。
メッセージ信者とは、メッセージを読み恐れることなんですよ。
私もそうでしたからわかります。
たとえ、反キリストがこようが、天罰がこようが、戦争がこようが、関係ないんです。
私達に必要なことは、イエズス・マリア様に信頼し、愛すること以外にはありません。
メッセージを詠みあさることは、イエズス・マリア様を信頼していないしるしなんです。
もし、聖体を拝領できない時が来たとしても、私達には霊的な聖体拝領があるじゃないですか?
必要なら神様が天使を遣わして持ってきてくれます。
メッセージを読むことはわるいことじゃありませんが、それに依存することは危険であり、罪なんですよ。
だれでも、メッセージを見ると恐れます。
自分達は罪人で負い目があるからです。
でも、神様の憐れみはとてつもなく大きく、
未来を恐れることを伝えるよりも、神様の愛、聖母マリア様の愛を伝えたいと今のブログを書き続けています。
聖人たちの愛も。
私は、聖テレーズが大好きでいつもそれに倣っています。
Posted by 使徒ヨハネ at 2017年09月10日 06:17



復刻版は2015年3月20日発行、発行人は山内継祐さん、発行所はフリープレス(山内さんが代取)です。山内さんによる新版あとがきが本の最後に2ページ付いています。冒頭は「2014年晩秋、1人の神父が帰天した。安田貞治神父、享年97」と書かれています。「晩秋」と「97」のところは訂正の紙が貼りつけてありました。剥がしてみたら、「晩秋」のオリジナルは「の秋」、「97」は「89」でした。安田神父様は「関東の某所で生涯を閉じた。いまわの際を看取ったのは、聖母の告げを聴いたS修道女その人だった」と書かれていますが、関東の某所とは千葉だったようです。山内さんは埼玉教区にお住まいのようですから、千葉とそれほど季節感に違いはないのに、なぜ「秋」を「晩秋」と貼り付けまでして書き換えたのか分かりません。栃木や群馬の山の方なら晩秋なのでしょうけど。年齢の間違いは修正しないといけませんけどね。

アマゾンで注文していた安田神父様の『奇跡と涙―続・秋田の聖母マリア』(1993年4月10日、緑地社発行)が今日届き、読み終わったところです。あとがきの前の最後のページに「また御子の残されたしるしとは、ご聖体の秘跡のことです」と書かれています。この一文の少し前のところで「彼女への最後のメッセージには、次のような重要なことが述べられていました。それは彼女の耳が癒されたことよりも、もっと重要なことのようにわたしには思われるので注目したいのです。それは第三のメッセージの中にある言葉ですが『私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残されたしるしだけです』と」。安田神父様も、ここに注目されていたのですね。「私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残されたしるしだけです」に続いて「毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください」とあります。御子の残されたしるしに関する記述はありません。もし、御子の残されたしるしが御聖体なら、ご聖体のうちにましますイエズス様への礼拝をするようにといった指示があってしかるべきと思います。安田神父様は1916年生まれ、私の母(享年81)と同じ年です。あえて安田神父様の理解に反するつもりはないのですが。
Posted by ジーン福岡 at 2017年09月10日 23:43


使徒ヨハネさま、こんばんは。
コメントありがとうございます。

メッセージの感じ方は、人それぞれなので、どう受け止めるかは本人次第と思います。
私は、メッセージを読んでも、あまり怖いとは思いません。
生きることも死ぬことも、すべて神様の御手の内にあります。
信仰を失うよりは死ぬ方が良い、と思っています。

天から来る真正のメッセージに無駄なものは一つも無い、とも思います。

>神様の愛、聖母マリア様の愛を伝えたい
これは、素晴らしいことですね。
良いお働きを続けられますように、お祈りしております。
Posted by テレジア マルガリタ at 2017年09月11日 00:29

ジーン福岡さま、
コメントありがとうございます。
また、本のカバー、新版あとがき、奥付のコピーなどをメール送付下さり、本当に感謝です。

メッセージの解釈は人それぞれで構わないと思いますが、「御聖体」では、ちょっと腑に落ちない、というのもなんとなく分かります。

私が思っていることを書いたら長くなりましたが、以下に載せておきます。。
。。。。。


 「御子の残された印」とは、やはり霊的な印=秘跡、御聖体の秘跡だけでなく7つの秘跡、それを包括するカトリック教会のことだと思います。そして、象徴的には可視的な「頭」と呼ばれる教皇様が鍵になると思います。

 御聖体の秘跡はイエズス様の現存ですから、「御子の残された印」=「御聖体」と考えるのもわかります。が、御聖体はそれだけで孤立しては存在できません。御聖体に聖変化させるミサがなければならず、ミサを捧げる司祭が、司祭を叙階する司教が、そして司教を聖別する「使徒継承のカトリック教会」がなければなりません。

 前にも書きましたが、私は、カトリック教会は、近い将来大きく二つに分裂するだろうと、思っています。すでに分裂は内在していますが、それがはっきり表に出るでしょう。その時に二人の教皇、二つの教会、のようになるでしょう。

 なぜ「ロザリオ」が先に来るかというと、ロザリオを唱えて聖母の助けを請わなければ、大分裂の時に、真の教皇、真の教会に留まれないからです。聖母と共にいなかった使徒たちは、誰一人として十字架の下に留まれなかったように。聖母の側に使徒ヨハネだけが残りました。

 聖母は、物質的天罰と、教会分裂の霊的惨状についてメッセージで述べておられますが、肉体の死よりも、真の教会から離れてしまう霊的な死の方が恐ろしいのです。

 このメッセージには「ロザリオをもって、司教、司祭のために祈ってください」とありますが、何故「教皇」が無いのかと言えば、「一人でも多くの司教、司祭が、真の教皇様に従い、真の教会に留まれるように、司教、司祭のために祈ってください」という意味だからです。教皇は「教会の礎」そのものです。

 そして、多くの司教、司祭に導かれて、正しい真の教会に留まれる信徒たちが多ければ多いほど、戦争などの物質的な天罰も軽減されるでしょうし、病気やDNA破壊などの絶望的状態から回復する人々も増えるでしょう。
 奇跡的な肉体の回復は、真の教会内でしか起こらないと思います。
 真の神は、ご自分の司どる真の教会がどれなのか、はっきりと人類に示し給うからです。

 聖母に繋がり、真の教会に留まる聖職者は少ないかもしれません。ロザリオによって、聖霊の浄配なる聖母マリアの取次ぎを求めたいと思います。

 
Posted by テレジア マルガリタ at 2017年09月11日 13:18
御子の残されたしるしは教会という解釈も可能ですね。

いま散歩から帰ってきたところですが、散歩のときも御子の残されたしるしのことを考えていて、ふと気づきました。ロザリオと御子の残されたしるしの前に「私たちに残された武器」とあることに。ロザリオは武器です。サタンと戦うための。同じように御子の残されたしるしも武器なのです。御聖体を武器にしていいのでしょうか?御聖体はイエズス様そのものです。礼拝の対象であり、武器にしてはいけないと思います。では教会は?教会はキリストの神秘体であり、私たちはその一員です。自分自身を武器にするというのも、どうなんでしょう。

トリエントミサから新ミサに変わったとき、大天使聖ミカエルに向かう祈りがなくなり、ミサ中で十字を切ることが減少したそうですね。新ミサで会衆が十字を切るのはミサの始めと終わりの祝福の時だけです(福音朗読の前に額、口、胸に十字をしるしをしますが)。十字を切ることが減ったのは、サタンが十字のしるしを嫌ったからでは?そうであれば、十字を切ることは武器になりえます。

人により解釈はそれぞれで、どれも決定的と言えるものはなさそうです。御子の残されたしるしについて論争するよりも、ロザリオを心をこめて祈ること、これが大切なのでしょう。
Posted by ジーン福岡 at 2017年09月11日 16:22

ジーン福岡さま、

そうですね。論争は意味がありません。
十字架の印と思われているのならそれで良いのでは?
Posted by テレジア マルガリタ at 2017年09月11日 23:28
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