2017年08月18日

幸いは神の御旨を行うことにある


受胎告知.jpg


 天使が訪れた受胎告知の時、

「私は主の婢女です。御言葉の通り私に成りますように。」(ルカ1.38)
と、処女(おとめ)マリアはお答えになりました。

この答えは、「私は、全身全霊をお捧げして、御言葉の成就のためにお仕えいたします」と、同義でしょう。

「私は主の婢女です」とは、
「私の霊魂は、主のお望みを果たすために捧げられています」ということです。

「お言葉の通り私に成りますように」とは、
「私の心も身体も、主への奉仕のために捧げられています」ということです。

この処女マリアの答えと、後に主イエズスの仰せになった、

「むしろ幸いなこと、神の御言葉を聞いてそれを行う人は」(ルカ11.28)とは、完全に呼応しているのです。


御母マリアの幸いは、ただ生物的に子を産んだことよりも、御言葉の成就のために生涯のすべての瞬間を捧げきったことにあると思います。

母として、御子イエズスキリストに親しく接し、日々霊的に学び、絶えざる内的礼拝の内に、御子の救い主としての使命に常に協力し、そのすべての苦労に参加していた間、心に聞いた神の御言葉を完全に行ったことにあると思います。


私たちも、御母マリアのように、主のみ旨を求め、御言葉を聞いて行うものとなれますように。


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posted by テレジア at 00:53| Comment(2) | 黙想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
神のみ旨を果たすことは、現代風に言い換えると、神から与えられたミッションを果たすことと言っていいのかもしれません。

お告げは、あなたに神の母となってほしい、とのミッションをマリア様が神から依頼され、マリア様の「仰せのごとく、我になれかし」とミッション受託の言葉をもって大天使ガブリエルが去っていきます。

12歳のイエズス様が両親から離れて、神殿にいたところを発見されたときイエズス様が両親に話されたことは、イエズス様がご自身のミッション宣言を両親にされたと見ることもできます。

ロザリオの最後の玄義、天の元后聖マリアは、現在進行中のマリア様の最後のミッションではないでしょうか。

生きているからには、わたしたちにはミッションがあるはず。それが何か理解し、そのミッションを果たすことができる恵みを日々祈り求めたいものです。
Posted by ジーン福岡 at 2017年08月18日 22:54



ジーン福岡さま、コメントありがとうございます。

聖書のこの部分「むしろ幸いなこと、神の御言葉を聞いてそれを行う人は」を縦に、プロテスタントの人々は、「マリヤはキリストにとって生物的に子を産んだ価値しかない」、というようなトンデモ解釈を持ち出すのです。「マリヤはちっともえらくない」と言う。

カトリックの私たちは、「マリアの偉大さは、神の母としてはもちろんであるが、謙遜な婢女として神の思召しを果たしたところにある。」(バルバロ神父訳、新約聖書の注釈より引用)と、理解します。
その再確認のために、この記事を書きました。

私たち一人一人も、神の思召しを行うために、マリアのように謙遜になるように召されているのでしょう。

おっしゃる通り、一人一人に神のお望みになるミッションがあると思います。
そして、それはいつも苦しみと痛みを伴うものだという気がします。



Posted by テレジア マルガリタ at 2017年08月19日 01:32
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