2017年02月23日

「聖書正典」を故意に軽視するものは破門という深刻な問題について


 カトリック教会が、聖書の正典目録に入れる書物を区別する基準は、「聖霊の神感」です。したがって、聖霊の神感を受けた書として認められたものは、正典目録(カノン)に加えられ、「カタニコイ」(正典書)と呼ばれました。
 聖霊の神感を受けた書物だといううわさがあっても、実際上、その保証のないものは、正典書として認められず、後に「外典書」と名づけられました。

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 聖書正典の中で、最後に書かれたのは、ヨハネの福音書 / ヨハネの手紙で、1世紀末(西暦90〜100年)頃と言われています。
 聖書の正典目録が完成したのは、かなり時代を下ってからのことですが、その後は決してブレることなく、一貫して73書の伝統的なカトリック教会の聖書を世に示し続けています。


 各時代に、教皇書簡や公会議などで、度々、聖書正典目録は再確認されています。
 その中から、公会議の宣言文を数例、ご紹介します。

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第3カタルゴ教会会議(397年)
「正典目録にあるもの以外は、教会内で聖書として読んではならない。正典は次のものである。」

第1トレド教会会議(400年と447年)
「カトリック教会が認めている以外の聖書を権威あるものとして敬うべきだと信じるものは排斥(破門)される。」

フィレンツェ公会議(1442年)
「旧約および新約聖書、すなわち律法と予言と福音の作者は、唯一の同じ神であると宣言する。事実、旧新約両聖書の聖なる人々は、同じ聖霊の神感によって語ったのである。次の目録に載せた書を受け入れ、そして尊敬する。」


いずれも、宣言文の後に、カトリックの伝統的な「聖書目録」が載せられています。
正典目録はコチラ↓
カトリック教会の真の聖書とは?
http://akitadiary.seesaa.net/article/446207315.html

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 16世紀になり、プロテスタントが発生すると、彼らはカトリック教会に反対し、以前に何度も排斥された異端説を持ち出すなどして、旧約及び新約聖書の一部分を正典と認めないと主張しました。

 旧約聖書では、トビアの書、ユディットの書、知恵の書、集会の書、バルクの書、マカべの書前後の7書全体と、エステルの書、ダニエルの書の2書の一部分で、それらを「外典書」(聖霊の神感のないもの)と呼ぶようになりました。
 また、それまで、カトリック教会が「外典書」としていたものは、上記のものと区別して「偽典」と呼ぶようになりました。

 新約聖書では、ヘブライ人への手紙、ヤコボの手紙、ユダの手紙、ペトロの第二の手紙、ヨハネの第二第三の手紙、ヨハネの黙示禄などが、プロテスタントの一部に反対され外されたそうですが、議論ののち再び正典と認めることになったそうです。 特に、マルティン・ルターが「ヨハネの黙示録」を、正典と認められなかったことは有名な話ですが、彼の後継者によって聖書に戻されました。


 カトリックでは、プロテスタントとの議論のために、彼らが正典と認めないことにしたこれらの部分を、便宜上「第二正典書」と呼び、それ以外のものを「原正典書」(あるいは第一正典書)と、呼ぶようになりました。

 しかし、第二正典と呼ばれた部分が原正典より劣るということではなく、同等に尊ぶべきものと教えています。カトリックの聖書の目次などでも、差別はありません。聖書正典のための承認が遅かったとしても、「聖霊の神感」によって書かれたことに違いはなく、人間の判断に時間がかかったということです。


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 そのような混乱した状況下で、カトリック教会は、この問題を決定的に解決し、聖書の正典をはっきりと再確認するために、トレント公会議1546年の第四総会で、聖書と使徒の伝承に基づいて、以下の宣言を出しました。

 「聖霊によって、合法的に召集された聖なるトレント公会議は、使徒的座(=教皇座)の三人の使節の指導のもとに行われ、次の目的を常に目指している。すなわち、すべての誤謬を取り除き、教会の中に福音の純粋性を保存する目的である。
 福音はその昔、予言者によって聖書の中に約束され、まず神の子イエズス・キリスト自身の口によって公布され、次にその使徒たちに、すべての救いの真理と道徳律の源泉として「すべての被造物に」(マタイ28・19以下、マルコ16・15)伝えるように命じられたものである。
 この真理と規律は、書かれた書物と、書かれていない伝承とに含まれている。
 伝承は、使徒たちがキリスト自身の口から受け継ぎ、または聖霊の神感によって、手から手へ渡すようにして、使徒たちから私たちに伝えられたものである。私たちは、正統派の教父たちの模範に従って、旧約と新約のすべての書物を受け入れ、尊敬する。それは、唯一の神が両聖書の著者だからである。
 また同じように、キリストによって口授され、聖霊が書き取らせ、カトリック教会の中に受け継がれ、保存されている信仰と道徳に関する伝承を、同じ敬虔の情と尊敬の心をもって受け入れ、尊ぶものである。
 だれひとりとして疑う者の無いように、この公会議が認めた聖書の目録をこの教令の中に書き記すものである。聖書の目録は次の通りである。」


 聖書の目録をのべてから、トレント公会議は、続ける。

 正典目録はコチラ↓
http://akitadiary.seesaa.net/article/446207315.html


「以上の書物を、カトリック教会において普通に読まれている古代ラテン語訳ヴルガダ版に従って、全部を残らず そのすべての部分をもって、正典に属する聖書として受け入れなかったり、上に説明した伝承を、知りながら故意に軽視したりする者は排斥(破門)される。」
〔トレント公会議 DENZ. 1501、1504〕

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 これによって、全く疑いようもなく聖書正典は確認され、宣言されたのです。

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 ところが、これに反する動きが1960年ごろから起こり始めました。共同訳聖書を作る動きです。


 共同訳聖書は、1966年にプロテスタントの聖書協会世界連盟とローマの教皇庁キリスト教一致推進事務局とが合意して「標準原則」として指針が示されました。が、この指針は、プロテスタント側が優先され、危険な妥協が潜んでいる、とデルコル神父様は警告していました。事務局は正式な聖省ではないし、教会の方針を尊重しないならば権威が無いのです。
 
 日本では、1970年頃に共同訳聖書の翻訳が始まりました。

 出来上がったものは、プロテスタントの慣例を優先させたものでした。いわゆる「第二正典書」と呼ばれる部分を、カトリックの聖書として本来あるべき位置から全て抜き出して、まとめて、「続編」として旧約の最後に付け足しのように載せたのです。

 新共同訳聖書は、さらに悪く、カトリック教会が明らかに「外典書」とした書物、そしてプロテスタントが「偽典」とまで呼ぶ書物を、あたかも「続編」の一部かのように加えてあるのです。

 これについての注釈は、別の場所、しかも巻末の誰も見ないような場所に書かれているだけです。この「注釈」を見損なって、本文そのまま「聖書」と信じてしまえば、異端として「排斥される(破門される)」というほど信仰に反したものであるのに、これが推奨され、多くの司祭、修道者、一般信徒に読ませているのが、日本のカトリック教会の現在の状況なのです。


 聖書の日本語訳に長年関わられ、旧新約聖書の翻訳で文化功労賞さえも受けられたデルコル神父様の義憤の声をお聞きください。

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(引用ココから)

新共同訳の立場 (続編と外典書)

さて、新共同訳(聖書)では、どうなっているのだろうか?

 第二正典の書物、またはその部分を、第一正典の書物から別にして、「続編」として第一正典の次に置いたことは、トレント公会議の決定に合わないというべきである。
 また、「続編」の最後の三つとして、確実に外典書(偽典)であるエズラ記第三と第四、そしてマナッセの祈りを同程度に加えたのは、なおさらトレント公会議とその以前のすべての公文書を無視したものである。このように、何の区別もなしに、何の注もなしに、何もことわらないで(*カトリックが正典と認めないものを正典であるかのように)加えたのは、聖書と聖書を忠実に守る使命を受けているカトリック教会とに対するこの上もない侮辱である。

 新共同訳聖書の巻末にある「付録」(6ページ)には、この三書について、「いずれもカトリック教会では正典の中に数えられていない」と言っているが、それなのに、なぜ他の続編と一緒に置いているのか? 巻末の付録のことばを、だれが読むのか? わたしは、何人かの聖職者に聞いてみたが、その付録があることにさえ気がついていなかったそうである。

 新共同訳のこの位置づけは誤解を招くものである。 
 おまけに、「続編」とその最後の三つの外典書が入っているのは、新共同訳のカトリック用の版だけで、プロテスタント用の版には入っていない。

 日本の一般信徒も聖職者もだまされて、あの三つの外典書(偽典)は本当の聖書であるかのように考えるようになり、いわゆる第二正典書は他の正典書に劣るものと考えるようになる危険がある。


 また、このやり方は、聖書とカトリック教会とに対するこの上もない侮辱である、と私は先に言った。カトリック教会が、公会議、教会会議、諸教皇の教令などによって、疑えないほど明白に自分の信仰を宣言したにもかかわらず、それを全部無視しているからである。

 新共同訳に協力したカトリック側のメンバーたちは、こうして、教導権の確かな教えに背き、カトリック教会を裏切ったというべきである。


ご存知ですかシリーズ35 「神のみことば その啓示と伝達」 
デルコル神父著 世のひかり社1989年6月29日発行 30〜32ページより引用


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参考文献

1。口語訳 新約旧約 聖書 ドン・ボスコ社発行 (全聖書序論、各書の解説等)

2。ご存知ですかシリーズ35 「神のみことば その啓示と伝達」 
  デルコル神父著 世のひかり社 1989年発行

3。公教要理

*。文献によって、日本語の翻訳の言葉が、「聖霊の神感」「聖霊の霊感」「霊感」などと違いがあるのですが、同義語と思われます。ここでは、「聖霊の神感」で統一しました。


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posted by テレジア at 17:29| Comment(2) | TrackBack(0) | カトリック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
新共同訳聖書の巻末にある「付録」(6ページ)には、

と書かれていましたから、自分の聖書をひらいて探したら

私のでは16ページでした。


Posted by maria at 2017年03月01日 00:07


mariaさん、

コメントありがとうございます。

この引用部分は、1989年発行の本「神のみことば その啓示と伝達」 からなので、情報が古いか、または単なるタイポエラーかもしれません。

情報感謝です。


Posted by テレジア マルガリタ at 2017年03月01日 01:06
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