2017年01月26日

「聖書の何たるか」を理解する

 
聖書と教皇ベネディクト十六世.jpg


 「聖書」についてのカトリック教会の基本的な教えが、分かりやすくまとめられた部分を、全聖書序論より引用してご紹介したいと思います。
 聖書の聖句を黙想することも大事ですが、まず、
「聖書の何たるか」を理解するよう努めることも、さらに大事と思います。

 下記の内容は、「公教要理」の聖書についての部分と同様ですが、さらに詳しく説明されているので、参考になるかと思います。
 ここで、「霊感」と言われているものは、公教要理で「聖霊の神感」と言われているものと同義です。
(公教要理の該当箇所は、一番下に載せますのでご参照ください。)

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


4福音記者.jpg



(引用ココから)


霊感

 聖書の本は、人間の本ではなく、神の本である。それらの本を書いた第一の著者は、神だからである。
 これらの本を書いた人は、「霊感」とよばれる神の特別な保護と指導とをうけて、書きあげた。霊感についての、この教義は、多かれ少なかれ聖書の本のいろいろなところに、暗示されている。(とくに、ティモテオ後3・16、ペトロ後1・20−21)。教会の教父と博士たちも、そのことを、はっきりと教えており、カトリック教会も、それを信仰の教義と定めている。

 この教義によると、「霊感」は、聖書の本を書いた人間に対しておこなわれる神の特別な保護と援助である。これによって聖霊は、「超自然の力によって、かれら(聖書著者)に、書くようにすすめ、うごかし、かれらが書いているあいだには、神のご命令になるすべてのことを、そして、そのことだけを、正しく考え、忠実に書きしるしたいとのぞませる。さらに、あやまりない真理を、適当に表現するように、かれらを保護される」(”プロヴィデンティッシムス” 回勅#1893年渙発)。

 これによると、聖書著者にたいする神の御働きは、三つに分けて考えられる。

1。聖書著者が「正しく知る」ことのできるように、その知恵を照らす(これを知恵の照明という)。
2。かれらに、「忠実に書く」のぞみを起こさせるように、かれらの意思力に働きかける(これを意思の発動という)。
3。それを「あやまりなく正しく」しるすように、書く場合に保護する(これを記述の保護という)。

 しかし、著者である人は、「霊感をうけて」神の口述によって書く単なる書き写し手だと考えてはならない。あるいは、意識なしに、虚脱状態で書いていたと考えるのも、あやまりである。
 著者である人間は、完全に自分の自由と、個性と、教養とを保ちつつ、しかも、神の干渉をうけて、超自然の世界にあげられる。こうして、個々の本の思索と記述との、人間的な、自由な道具となるのが、著者である人間である。

 そのために、聖書の各本と各部分との第一の著者は、神であり、手段的な道具的な著者として、人間をおくわけである。人間としての著者の、その文体や性格や教養やそういったものを研究することも、したがって正しいわけである。霊感をうけていても著者の人間的な個性は残されて、それが完全に表現されているからである。

 かれらの著作に、あやまりがないという点は、「霊感」の保護のためであるといってよい。実に、神が聖書の本の第一の著者であるのなら、その本にしるされているすべての宣言は、神ご自身の宣言であるわけである。真理そのものである神は、あやまちをすることも、他のものだますこともありえないのであるから、霊感をうけてしるされている本は、絶対に、あやまりのないものだと考えなければならない。
 「霊感」をうけてしるされたものではあっても、人間として、人間の表現を用いている人間の著者のほうは、比喩を用いたり、自然現象をしるすために、当時の表現を用いたりしているが、それはゆるされていることである。そういう表現は、比喩として解釈するか、あるいは科学的な事実ではなくて、単に自然現象の記述として解釈しなければならない。たとえば、「神の怒り」、あるいは、「後悔」などが、聖書に出てくるが、それは、比喩的な言い方である。あるいは、「太陽が昇る」、「日が暮れる」というのは、一般の人の用いていた言い方である。

 また注意すべきは、現在のある聖書テキストの中にあるあやまりは、長い世紀にわたって原文を書き写し書き写ししてきたときの写しあやまりか、訳のあやまりである。

 「霊感」の教義を教えて、保証しているのは、カトリック教会である。カトリック教会は、この点について、昔のユダヤの教えにも基づいている。

 カトリック教会の権威を否定したプロテスタントは、聖書が霊感によるものであることを証明し、あるいは、認めるために、各時代にわたって、カトリック教会のこの教導権にかわるものを見つけようとしたが、結局は失敗し、現在は、その点について放置されている状態である。

「口語訳 旧約新約聖書」バルバロ/デル・コル訳(ドン・ボスコ社1964年発行) 
全聖書序論 10〜12ページより引用



。。。。。。。


聖書著者3.jpg

四福音史家


公教要理 第一部 第二課 〔信仰とその源〕より

8 天主の啓示し給うた事柄を、人々に教えるのは誰ですか。
  天主の啓示し給うた事柄を、人々に教えるのは、公教会であります。
  「汝等往きて万民に教えよ」(マテオ 28-19)

9 公教会が教える天主の啓示は、何に含まれていますか。
  公教会が教える天主の啓示は、聖書と聖伝との中に含まれています。
   聖書と聖伝とを信仰の二つの源(みなもと)と申します。そしてこれらは天主の特別の御助によって、誤りなく、公教会に保存されております。

10  聖書とは何でありますか。
聖書とは、聖霊の神感によって、天主の御言葉を書きしるした書物であります。
   聖霊の神感とは、天主の超自然の御助によって、一、聖書記者に筆をとる心を起させ、二,内容を示し、三,書く時に誤りがないように導くことであります。

公教要理の全文はコチラ
http://www.d-b.ne.jp/mikami/catech.htm#02



にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
カトリックブログランキング- よろしければ、めでたしひとつと クリックひとつ お願いします。




posted by テレジア at 16:51| Comment(0) | TrackBack(0) | カトリック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/446330415
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック
タグクラウド