2016年12月11日

トリエント・ミサとノブス・オルド・ミサの具体的な違いは?


 トリエント・ミサ(聖伝のミサ)からノブスオルド・ミサ(現在の教会で一般的な新ミサ)へ具体的にはどう変わったのか?
 2つのミサの典礼文の変化について、具体的でわかりやすい記事があったので、(ここで許可を願いつつ)その部分を引用したいと思います。


 私が10歳くらいの頃、すべてのカトリック教会で、新ミサに移行したんです。
 その時から、「新ミサには良い点が沢山ある。例えば、各国語になって皆に分かりやすくなった」と、説明されてきました。どの神父様も、ほぼ、異口同音にそう言っていました。

 しかし、この記事を書かれた方が指摘しているような、「本来のミサ典礼文の大幅な削除」とか、「それまでなかった文の追加」があったことなどの説明は、聞いたことがありません。
 私自身も、この記事を読むまで、よく分かっていませんでした。

 おそらく、ほとんどの信徒は、国語に訳された新ミサに与っていて、「これがミサだ」と理解していると思いますが、本来のミサとはかなり違うわけで、それは問題だと思います。
 
 クチュール神父様が、「ラテン語の新ミサよりは、国語のトリエント・ミサの方が良いのです」とおっしゃっていた意味が、やっと分かったように思いました。


。。。。。。。。。。。。


ー(「ヴァチカンの道」第19巻 第3号の記事より引用、ココから。)ー


 それでは、1969年に儀式聖省が発布した使徒憲章『ミサーレ・ロマーヌフ』で新ミサの典文を公布し、トリエント・ミサが廃止されたかのような印象を世界に与えた典礼改革とはなんだったのでしょうか?そして 何故、そのような改定を行ったのでしょうか?

 トリエント・ミサは、「主は皆さんと共に」「また司祭の霊魂と共に」と言ったやり取りの部分を除いた上で段落数を数えてみると、ラテン語で80ほどのパラグラフ(段落)から成り立っています。これを平日の読誦ミサで、説教なしで捧げた場合は40分ほどかかります。

 一方、新ミサは、平日の読誦ミサとして捧げた場合は、15分以内で読み終わることができます。実際そのような超特級ミサに与って驚いた記憶があります。司祭が、第二奉献分を使い、通常の祈りと聖書朗読部分を読み上げるだけなら、おそらく10分もかからないのではないかと思います。

 あわれみの賛歌、信仰宣言、奉献文の一部など、文言の骨格部分がほぼ両者に共通している段落は、20パラグラフほどです。
 つまり、トリエント・ミサの典文の75%以上を削り取ることによって、新ミサは成立したのです。

 ですから、1964年に、ローマ聖座の一機関として設立された典礼改革実行委員会 (*注1) の事務局長だったアンニバレ・ブニニ大司教 ( *注2) が作成した 新ミサとは、一言で言えば、徹底的な削除作業の結果なのです。

 削除の一方で、新ミサにはトリエント・ミサには無い文章が付け加えられています。この付加部分、特に奉献文中の付加文言には、ミサの意味と定義を根源的に変えるほどの、深刻な問題があります。


 。。。(中略)。。。。

 上記の75%にも上る削除の目的は、何だったのでしょうか? これを検討するために、「改革」のなかで、削除されたトリエント・ミサの祈りのうちのいくつかを ここでお目にかけ、読者に先ず『何が削られてしまったか』を知ってほしいと思います。

 トリエント・ミサには、序唱の後の「カノン、すなわち 奉献文」が始まる前に、「オフェルトリー、すなわち奉献の部」という11段落からなる一群の祈りがありました。
 ここで、信者に対し、今からミサが聖変化に向かって進み、十字架のいけにえが もうすぐ再現され、イエズス様が御自分を私達の罪の償いのために、祭壇上で天の御父に捧げてくださることを 予告していたのです。
 この予告は、信者の信仰のため教育的効果があり、イエズス様の犠牲の奉献に向かって、信者の心を準備させる部分でしたが、新ミサでは、この11パラグラフが、ほぼ全文、削られているのです。この削除部分から二つだけ紹介します。

 たとえば Suscipe sante Pater の祈りでは
「聖なる父、全能永遠の神、不肖の下僕である私が、活ける真の神に捧げる、この汚れ無きいけにえを受け入れ給え。私は、私の数知れぬ罪と侮辱と怠りのため、又、ここに列席する人々の為、そして生きる者、死んだ者、全てのキリスト信者のために、これを御身に捧げ奉る。願わくは、これを私と彼らとの永遠のたすかりに役立つものと成らせ給え」
と司祭は祈り、

 さらに、Offerimus の祈りでは、
「主よ、我らは、助かりのカリスを御身に捧げ、御慈悲に願い奉る。願わくは、これが、甘美な香りを放ちつつ、我らと全世界との救いの為に、主の御稜威の御前に立ちのぼらんことを」
と祈っていました。

 続くカノンも、本来の19段落が半分に削られています。カノンが始まるとまず、Te igitur の祈りが出てきます。
「いと寛仁なる父よ、我らは深くへりくだって祈り奉る。願わくは、御子イエズス・キリストによって、この賜物、この捧げもの、この汚れなく聖なるいけにえを受け入れ、祝し給わんことを。」

 次に Memento の祈りがあり、司祭は、生きている信者の名を唱えて、次にように神の御恵みを祈り求めたのです。
「主よ、主の僕、。。。。を記憶したまえ。また、御身が、その信仰と敬虔とを知りたもう、ここに列席している人々をも記憶したまえ。我らは、彼らのために、更にまた、彼ら自ら、称讃のこのいけにえを、自分と自分に縁ある人々のために捧げ奉る。それは彼らの霊魂の贖いの為、救霊の希望を強める為、また、全ての危険を免れるためであって、永遠の活ける真の神にその称賛を捧げ奉る。」

 さらに 司祭はホスチアとカリスの上に按手して Hanc Igitur の祈りを捧げます。
「主よ、主の全教会と僕らの捧げ奉るこの供え物を、受け入れ給え。そして、主の正義をなだめ、我らを 日々 主の平安のうちに生きさせ、永遠の罰より救い出し、なお又、御身の選び給うもののうちに、我らをも加え給え。我らの主キリストによって。アメン」

 ここで、パンとぶどう酒の聖変化が行われます。....... その後 Supplices te rogamus の美しい祈りが捧げられます。
「全能の神に恭しく願い奉る。主の聖なる天使の手をもって、主の祭壇と神聖な御稜威の御前に、このいけにえを運ばせ給え。この祭壇のいけにえにあずかり、御子の至聖なる御体と御血を受け奉る全ての人々が天の祝福と恩寵とに満たされんことを。同じ我らの主キリストによって。」 


 このように、トリエント・ミサの典文のなかには、御ミサにおけるキリストのいけにえの再現に対し、信者の注意を惹きつけ、その贖いの効果に対し黙想を促す祈りが散りばめられていました。これは、拝領前に、聖体におけるキリストの現存への信仰を呼び起こし、『心構え(disposition) と心の準備』をさせた上で拝領させ、その霊魂に恩寵を豊かに注ぎ込むことを目的としていました。なぜ、これらの大切な表現と祈りの言葉を削除してしまったのでしょうか?

 この削除は、永遠にまで続く損失をもたらす破壊であり、信者の霊的財産の奪取というべきではないか、と思います。なぜなら、同じ一つの御聖体をいただくのにも、この聖体への心構えと準備がよくできている霊魂ほど、より豊かに恩寵を受け取ることができるからです。

。。。トリエント公会議は、この重大なポイントについて「我々は、一人一人の心構えと協力に応じて、恩寵を受ける」(*注3)と教えています。
 トリエントミサが、信者、司祭の心を愛で満たす効果が強い主要な理由の一つは、それがカトリック教理の正確な表現によって、聖体拝領に先立ち、司祭、信者の心構えを整えるからです。これによって、神の恵みが豊かに、大海の潮流のように、信者の心に流れ込むことを可能にするのです。



 さてここまで削除箇所の検討をした上で、筆者は、12人のスコラ神学者が、1969年に、約2ヶ月共同研究を行い、まとめた、『新ミサ式次第の批判的研究』を提示します。

(中略)。。。。

『批判的研究書』は、新ミサの典文から、
「ミサにおける十字架のいけにえの再現」に関する数々の祈りや表現群が、ほぼ全面的に削除されている事実について、「いけにえに関することをこのようにはっきり表現しないことの理由は、トリエント・ミサにおいて あれほど輝かしく中心を占めていたキリストの聖体における現存が、今では、最早ミサの中心から閉め出されてしまっているからである」
と述べています。

 これは重大な指摘です。ミサ典文の書き換えによって、本来のミサの核心点である「ご聖体におけるキリストの現存」から信者の注意の焦点がそらされれば、その結果、彼らの聖体信仰が弱められ、少しずつ、消えていくからです。
 このような巧妙な焦点外しは、信者の霊魂に教会に流れ込むべき神様の恵みをせき止めることによって、カトリック教会の衰弱・衰退をもたらすからです。



「ヴァチカンの道」(横浜アクショングループ発行)第19巻 第3号 
「何故教皇様は司祭がトリエントミサを捧げ信者がそれに与る権利を再確認なさったのか?」福島睦男氏筆の記事より引用
(*行変え、太字強調は管理人による*)
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

(*注1)コンシリウム Consilium ad exsequedam Constitutionem de Sacra Liturgia
(*注2)Annivale Bugnini
(*注3)Secundum propriam cuiusque dispositionem et cooperationem (Denzinger 1529)


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posted by テレジア at 18:17| Comment(6) | TrackBack(0) | カトリック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
そうなんですね。これほどまでに削減していたんですね。
Posted by じょばんに at 2016年12月11日 21:45


じょばんにさん、こんにちは。
そうなんです。
私はミサ改革の時、まだ子供で、ミサ典書も使っていませんでしたから、これほど大幅な削除が行われた、ということは、全く気が付きませんでした。
ミサ改革の後、ずいぶん短くなったような気はしましたが、多少の言い回しの違いだろうか?と、なんとなく思っていました。
今になって思えば、日本語になったり、対面ミサになったりで、目くらましされていたような感じです。
Posted by テレジア マルガリタ at 2016年12月12日 09:40
Posted by at 2016年12月17日 18:29
Posted by at 2016年12月17日 22:18
テレジアさん、こんにちは。
・・・この記事読んでいて、血の気が引く思いでした。
こんなに削除されて、しかも日本では跪きという必要な事も禁止になり、はたしてミサの御恵みはどれほどのものかと思ってしまいました。
なかでも目を引いたのが、「聖体への心構えと準備がよくできている霊魂ほど、より豊かに恩寵を受け取ることができる」とか「我々は、一人一人の心構えと協力に応じて、恩寵を受ける」という一文です。
心構えと準備・・・いったい現在の教会でどれくらいの人ができているでしょう?
自分自身は立った姿勢で聖体への心構えと準備なんてできない、と思いました。
Posted by taro at 2017年04月26日 20:44


 この記事には、本当に大事なことが書かれています。

 日本に、本物のミサを取り戻さなければなりません。
 多くの司祭、修道者、そして信徒の方々が、それに気付いてくださるように祈ります。
Posted by テレジアマルガリタ at 2017年04月30日 21:32
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