2016年04月03日

現行ノブスオルドミサ無効化の危機?

 
最近のトリエントミサのブログ記事に関して、「現行のミサも有効ではないか」というコメントやメールを、いくつかいただきました。
 該当記事:http://akitadiary.seesaa.net/article/434597052.html?1459655309


 私は、「現行のノブスオルドミサが、すなわち無効のミサ」とは言っておりません。(聖ピオ十世会の司祭方も、けっしてそのようなことは主張していません。)

 ただ、

ミサの聖変化が、秘跡として有効になるための絶対必要な条件(質料、形相、意向)が、次第に整わなくなり、無効になる危険が高くなっているのではないか、と危惧しているのです。

1)質料とは、「小麦粉と水のみ」、「ぶどうの果実から造られた天然の純清酒」という教会の規定に沿った物質(材料)のことです。

2)形相とは、教会の規定に沿った正しい聖変化の文言を唱えることです。

3)意向とは、正しいカトリックの信仰を持った司式司祭が、「パンとぶどう酒を、キリストの御体、御血、御霊魂、御神性を備えたキリスト自身の現存へと、全実体変化させる」という意志を持つことです。



 1)「質料」と 2)「形相」も、時々、問題になることもありますが、日本では教会の規定が守られている場合がほとんどでしょう。

 3)「意向」が、微妙であり、危険なところなのです。

 ミサを捧げる司祭が、カトリックの正しい信仰によって「種無しパンをキリストの真の現存に聖変化させる」という「意向」が本当にあるのか?というのは、司祭の頭をカチ割って見ることができませんから、その態度から判断しなければなりません。
 それで、聖変化の後、あるいは聖櫃にまします御聖体に対して、そこにキリスト御自身が存在なさるように振舞わない司祭の場合、聖変化のための「意向」が整わない可能性があるのではないか、と疑問が起こるのは当然のことです。

 全知全能の神である主イエズスキリストが、そこにいらっしゃるのに、何の尊敬も礼拝も現しませんか?
 信徒たちが礼拝の姿勢をとることさえ許しませんか?
 聖変化されたホスチアを聖変化されていないホスチアの容器に戻して混ぜるのですか?
 本当に、御聖体のキリストの現存を信じていますか?
 
 司式司祭が聖変化を信じていない場合、そのミサでは聖変化が起こらない可能性があります。

 
 そもそも、日本司教団が、日本の信徒たちにひざまずきを止めさせた時、日本の規定として、すべての「ひざまずき」は「合唱して深く礼をすること」に置き換えられたはずですが、それを守っている人は、ごく少ないようです。
 このために、教会内で、司祭、信徒も共に、次第に礼拝の意思を示す所作が全く無くなってしまうと、聖変化は起こらない可能性が高くなります。礼拝の無いミサは本来の目的から逸脱しているからです。

 Q。ミサ聖祭を献げる目的は何でありますか?
 A。ミサ聖祭を献げるのは、1)天主を礼拝し、2)その御恩を感謝し、3)罪を贖い、4)御恵みを求めるため であります。
 (公教要理 第58課432番、189ページより引用)

 それで、現行のノブスオルドミサの無効化が懸念される訳です。

 
 ノブスオルドミサでも、カトリックの信仰を正しく保つ司祭、例えば安田神父様の献げられるミサでは、このような疑問は起きません。
 以下のビデオは、生前の安田神父様の御ミサの聖変化の部分です。





 神父様の、聖変化の文言に込める聖なる意向、そして聖変化後の御聖体に対する礼拝の様子は明らかです。
 まさに、「信仰の神秘」の実現がここにまします。入魂の御ミサです。



 以下は、聖ピオ十世会の小野田神父様の御ミサの聖変化の部分です。
この二つのミサに共通しているのは、司祭の内に、キリストの現存に対する礼拝の心が感じられることです。






 トリエントミサでは、聖変化の時に、信徒のひざまずいての礼拝は規定の所作です。司祭も聖変化後に膝をついて礼拝の所作をすることが規定通りです。


 現行ノブスオルドミサが抱える様々な問題(誤訳の問題、姿勢の問題、不敬の問題、意向の問題、質料の問題など)から解放されて、ひたすら専心してミサに与れる、それが私がトリエントミサをお勧めする理由です。



 しかし、諸事情でトリエントミサの機会がない方々は、自分の良心に照らして決められたら良いと思います。


 カトリック信者は、天主なる神様を礼拝するために、特に選ばれた人々です。
 いろいろな慈善活動もすばらしいのですが、天主様への愛と礼拝を捧げることが、まず第一の務めです。
 これは、天使の一階級の「セラフィム」は礼拝に専念している、と言われているのにも似ています。

 全知全能の神様を礼拝することを忘れたら、塩は味を失ってしまうのではないでしょうか?


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posted by テレジア at 13:49| Comment(7) | TrackBack(0) | カトリック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
テレジア様

充実したHPですね。
テレジアさんのお書きになったことで、気になった点がありましたので、以下、申し上げたく思います。

3)意向とは、正しいカトリックの信仰を持った司式司祭が、「パンとぶどう酒を、キリストの御体、御血、御霊魂、御神性を備えたキリスト自身の現存へと、全実体変化させる」という意志を持つことです。

という記述と、それに続く記述ですが、

カトリックの秘跡理解では、ドナトゥス派と聖アウグスティヌスとの論争で明らかになったように、たとえ、異端者や棄教者が授ける秘跡であっても、秘跡自体に効力があるので、それは有効となります。これを「事効論」といい、カトリックの立場です。

ですので、テレジアさんのお書きになった、

司式司祭が聖変化を信じていない場合、そのミサでは聖変化が起こらない可能性があります。

というのは、間違っていると言わざるをえません。

たとえ、司祭が完全に信仰を失っていて、かつ事実上、異端者になっていたとしても、その捧げる秘跡は有効なのです(秘跡に人間側の功績を認めない、カトリックの伝統的な信仰です)。
どうぞ、アウグスティヌスとドナトゥスの論争の出来事、あるいは岩下壮一師の『信仰の遺産』(「司祭職と秘蹟の問題」)をお調べになってください。

反対に、「立派な人が秘跡を授けなければ効果がない」とか「授ける人に信仰がなければ効果はない」と主張する立場を「人功論」といい、多くのプロテスタント教会が採る立場です。


トリエント・ミサの素晴らしさを書かれるのはよいのだと思いますが、多くの一般のカトリック信者が出席しているミサに対し、「現行のノブスオルドミサの無効化が懸念される」とまで、お書きになられるのであれば、神学的にきちんとした裏付けを提示すべきではないかと思われます。

秘跡論を語る場合に、上記のドナトゥス論争は必須の事案です。それは、この事案の隠れた問題が、教会の指導原理や、司牧問題に亀裂を引き起こすことにつながるからです。ドナトゥス派の人々は、自分たちは他の信者より、より正しい教えを信じていると自負し、それが離教につながっていったのでした。聖書が禁止している「分裂・分派」ですね。
 教会史を見ると、その後のペラギウス派、中世のカタリ派、プロテスタント教会の中にも起こる分裂問題など、みなこの問題とつながっています。


テレジアさんが聖体奉仕会の準会員であるのであれば、秋田の聖母のご出現の真偽問題で、間違ったイメージを人々に与えてしまうのではないかと思い、あえて書き込みをさせていただきました。


私が書いたことは、一般に入手できる本で調べられます。日本語で読める一番詳しい聖体論に関する神学書は『主の晩餐』(南窓社、絶版)ですが、『カトリック教会文書資料集』や『ローマ・カテキズム』などとともに、教会史や教理史、アウグスティヌスやトマスの秘跡論などをインターネットで検索していけば、同じ結果になるはずです。

人の救いに関わることですので、遠慮せずに申し上げました。どうぞ多言をお許しください。祈りと共に。
Posted by 鹿取信二 at 2016年06月01日 13:09
鹿取信二様、

コメントありがとうございます。

ご指摘のことと、私が申し上げたかったことと、少し論点が違うようなので、説明不足であったかと思われ、補足したいと思います。


秘蹟が有効に行われるために、執行者の「意向」は必要不可欠です。
例えば、教会内で司祭が最後の晩餐の箇所を 福音朗読 していて「これは私の身体である」と言い、その際、祭壇上にホスチアがあったとしても、聖変化しません。
司祭に聖変化させる「意向」が無いからです。

その司祭が偉大であるか否か、罪深いか否か、信仰が深いか浅いか、にかかわらず、その司祭に「意向」があるか否か、によります。

秘蹟自体に効力があって、勝手に聖変化するということはありえません。


ホスチアのパンをキリストの御体に全実体変化させるという、また、
教会が常にしていることをするという(有効性のために司祭が持っていなければならない)「意向」が無ければ聖変化は起きません。

聖アウグスティヌスの言う通り、棄教者や異端者であっても、この意向を保っていれば、聖変化は起こり得ます。(意向を保ち得ない程の信仰の喪失であれば別です。後述します。)


また、司祭個人が聖変化の可能性を疑うという誘惑を受けていたとしても、「教会が常にしていることをする」という意向によって、聖変化は起こります。十字架の贖いの再現、継続であるミサは、司祭が個人の考えで捧げるのではなく、カトリック教会の中で教会の信仰によって捧げられるものです。すべてのミサは公のものであり私すべきものではなく、教会の存在のうちに成り立つものです。

。。。。。。。

ドナトゥス派に関するHPの記術等、いろいろ読ませていただきました。
ウィキには、
この(聖アウグスティヌスとドナトゥス派の)論争のテーマは、人の罪がサクラメントの有効性に影響するのかどうかにあった。結局、主流派となった教会においては、神の恩寵は人の道徳面の状態からは影響を受けないこと、罪の無い人間はいないことを根拠として、サクラメントは一度棄教した者によるものであっても有効である事が確認された[3]。

とありましたが、これが鹿取信二様の論点であれば、それはおっしゃる通りです。
が、私は、ノブスオルドの司祭が罪人だから無効だ、と申しているのではありません。私個人が司祭方を断罪する意図もありません。そのような誤解を与えてしまったのなら残念に思います。


。。。。。。。。。


ノブスオルドのミサであっても、また、たとえ聖伝のトリエントミサであっても、もし、司祭が、形だけミサの式次第を行い、ミサの有効性のために必要な「意向」を持っていない場合、聖変化は起きません。


 現代の教会内に蔓延した誤謬は、十字架の贖いの再現、継続である「ミサ聖祭」を、単なる会食の記念かのように提示しています。


 ミサにおける十字架のいけにえ、神の子羊であるキリストの現存の教義を否定している場合、

 イエズスの神性を否定して贖罪と救霊の教義を全否定している場合、

 さらに、唯一、聖、公、使徒承伝のカトリック教会の存在意義を否定している場合、

 それらの司祭は、もはや「ホスチアをキリストの体に全実体変化をさせる」という意向も、「教会がしていることをする」という意向も持ち得ないと思います。
 持っている、と言うならば、自己矛盾です。


 それで、ミサ奉献後のホスチアに対してキリスト現存に対する崇敬が感じられない態度であられる司祭方には、これらの教義に対する否定が心中にあり、ミサの際「意向」の欠如が起こっているのではないかと危惧されてしまうものです。

。。。。。。。。


「多くの一般のカトリック信者が出席しているミサに対し、「現行のノブスオルドミサの無効化が懸念される」とまで、お書きになられるのであれば、神学的にきちんとした裏付けを提示すべきではないかと思われます。」
とのことですが、これはおっしゃる通りです。配慮の不足をお詫びします。


神学的な裏付けとしては、以下のリンクをお勧めします。関連のある部分は引用しておきます。
http://fsspxjapan.fc2web.com/op/op4.html

上記のページだけでなく、前後や全体も、カトリック者として必読と思います。完全同意できない方でも、大変参考になると思います。
全体の目次はコチラ
http://fsspxjapan.fc2web.com/op/op00.html


。。(引用ココから)。。。。

ミサは物語の叙述ではなく、実現する行為なのです。
 ミサが十字架のいけにえの続きであるためには、三つの条件が必ず無ければなりません。それは、

−犠牲の奉献、

−いけにえを象徴的ではなく実際的に祭壇上に現存せしめる全実体変化、そして、

−私たちの主こそが第一の司祭ですが、その主の代わりとなる司祭、言い替えれば、私たちの主の司祭職によって聖別されていなければならない司祭、の三つです。

 そうしてこそ、ミサは罪の赦しを与えることが出来るのです。単なる記念、食事を伴った制定の記念、というのは、罪の赦しのためには遥かほど遠いところにあります。ミサの持つすべての超自然の力は、十字架のいけにえとミサとの関係から来るのです。もしそのことを信じていないなら、聖なる公教会の教えることを一つも信じていないことになるのです。そうなったら、公教会は存在する理由が無くなってしまいます。そのような人は、もう自分がカトリックなどと主張すべきではありません。

。。。。
ミサの新しい司式Novus Ordo Missaeを見ると、それがプロテスタントの観念にそっくりであるのに、少なくとも危険なほどそれに近づいているのに、気が付きます。ルターにとってミサは賛美のいけにえでありえました。つまり、ミサとは賛美することであり、感謝することではあるのですが、十字架のいけにえを更新し私たちに適応させる罪の償いのいけにえでは決してないと、ルターは考えていたのです。ルターにとっては、十字架のいけにえは歴史のある限定された時において起こり、この歴史の中に閉じ込められ、私たちがキリストの功徳を自分たちに適応することが出来るのは、私たちがキリストの死と復活を信じることによるだけでした。

 しかし、公教会はその反対に、このいけにえは、ミサのたびごとに、私たちの祭壇上で神秘的に血を流さないやり方で、パンとぶどう酒の形相の下で御体と御血との分離によって実現すると常に言明しています。この神秘的な更新のおかげでミサに参列している信徒たちに十字架の功徳を適応させることが出来るし、時と空間においてこの聖寵の源を絶えず続けることが出来るのです。聖マテオによる聖福音はこの言葉によって終わっています。「私は今からお前たちと共に常に世の終わりまでいるだろう」と。

 この考えの違いは些細なことではありません。しかしカトリックの教義を変えて、その違いが無いかのようにしようと努力しています。カトリックの教義に変更が加えられていることは、典礼の中に多くのしるしを見ることが出来ます。

。。。。。。。。。。

皆さんが与ったミサは有効だったのか?皆さんが拝領したホスチアは本当に御聖体だったのか?と。

 これは重大な問題です。平信徒は、どうしたら判断することができるでしょうか。

 ミサの有効性のために基本的な条件があります。それは、質料と形相と意向と有効に叙階された司祭です。もしこれらの条件がそろっているなら、無効であるとどうして結論できるのか分かりません。奉献の祈り、カノンの祈り、司祭の聖体拝領の祈りなど犠牲の完全性と秘蹟の完全性のためには必要ですが、その有効性のために必要なのではありません。ミンゼンティー枢機卿は牢獄の中でパンとぶどう酒の上に聖変化の言葉を急いで見つからないように唱え、牢番に見つからないように我らの主の御体と御血で自らを養っていました。ミンゼンティー枢機卿は、いけにえと秘蹟を確かに行っていたことでしょう。

 私が既にお話しした或るアメリカの司教の蜂蜜入りのケーキでの「ミサ」は、はっきりと無効です。

それは、聖変化の言葉がひどく代わってしまったか、あるいは、省略されてなされたミサが、無効なのと同様です。私はこれを勝手に作り上げているのではありません。或る司式者が何か創造性あることをしようとそのことばかりに夢中になっていたために、聖変化の言葉をつい忘れてしまったと私に話してくれた人がいるからです。

 しかし、司式者の意向はどうやって判断したらいいのでしょうか。司祭たちの信仰が弱まるにつれ、彼らが「教会が常にしていたことをする」という意向をもはや持たなくなるにつれ、(というのは、教会はその意向を変えることができませんから)ますます有効なミサが少なくなっているということは全く明らかなことです。いわゆる現在「神学生」と呼ばれている人たちの受けている養成では、有効なミサを捧げられるようにとは、彼らを準備していません。神学校では、ミサ聖祭の犠牲が司祭生活の基本的な事業であるなどと考えるようには彼らに教えていないからです。
Posted by テレジア at 2016年06月03日 13:25
 



 上記のコメントの後も、引き続き、鹿取信二様とは有意義な議論をさせていただいております。


 非公開にしたのは、信徒同士のあまり細かい神学的議論はこのブログの趣旨ではないことと、過去に某掲示板での信徒同士の議論で感情的になり遺恨を残すような場合があるように思いましたので。もし、他の参戦(?)者があって荒れると困るな、と思ったからです。


 聖ピオ十世会のミサに行く人々に対して、
「フランシスコの平和の祈りと言われるものは聖フランシスコの作ではないことも知らないなんて、本当にバカばっかりだな」とか、
「あなたの心も霊魂も腐ってしまいました」とか、
意味不明の罵倒をする人々が多すぎるように思います。
 そういった人々にカトリック信者を自称されると、本当に恥ずかしく残念に思います。未信者さんたちから見れば、汚い内輪揉めにしか見えず躓きになることでしょう。


 日本にも、鹿取信二さまのように、真摯に理性的に考えようとする方がいらして嬉しく思います。

 この度の意見交換では、お互いの視点の違い、前提の違い、言葉(単語)の解釈の違いなども踏まえて、理解し合えるように努力することが大切だと思いました。
 「不信仰」「未受洗者」などの言葉の定義も、今まで漠然と捉えていましたが、自分の考えを整理することもできました。

 鹿取信二様には、お時間をとってご意見をお伝えくださり、感謝しています。
Posted by テレジア マルガリタ at 2016年07月03日 19:02
はじめまして。
私は未信者で最近、近くの教会に通いだした者です。
日曜日のミサに出席していますが、質問があります。
近所の教会のミサと比べようと安田神父様のミサの動画をみたのですが、音声がよく聞こえず具体的にどういう部分が優れてるのでしょうか?
現代のミサの唱える言葉とこの動画の中の言葉はちがうのでしょうか?
Posted by taro at 2016年12月12日 13:27

taroさん、
はじめまして。

安田神父様が唱えておられるミサは現代のミサです。
言葉は同じです。

私がお薦めするのは、2番目の動画の聖伝のミサです。

taroさんが、カトリックの信者さん方と共に祈る雰囲気の集いに参加したいと思われるならば、近所の教会の集いに参加なされば良いと思います。

カトリックの真のミサに与ってみたいと思われるならば、聖伝ミサをお薦めしますが、定期的には東京と大阪しかありません。

Posted by テレジアマルガリタ at 2016年12月13日 17:06
テレジア マルガリタ 様
こんにちは。
質問なのですが、聖伝のミサというのは普通の小教区で洗礼を受けた人でも与れるのでしょうか?
Posted by taro at 2016年12月16日 09:47


taroさま、

聖伝のミサは、普通の小教区で洗礼を受けた人でも与れます。
どなたでも与れます。(^^)

聖体拝領なさるなら、ミサの前に告解もお勧めします。
Posted by テレジアマルガリタ at 2016年12月16日 16:28
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