2016年05月28日

秋田巡礼2016 そのA


秋田は生き残りの場所


 この度のダブル巡礼では、「長崎」「秋田」のコントラストを感じました。

 禁教時代には、日本中で多くのカトリック者の殉教がありましたが、長崎を中心として、熊本、大分など、九州地区はその信仰と殉教を代表するような土地です。恐ろしい拷問にも屈せず信仰を守り抜いて殉教をした多くの人々。。。


 秋田をはじめ陸奥(みちのく)一帯では、殉教もありましたが、多くのキリシタンが鉱山に隠れ住み、信仰を守って生き延びた土地でもあるのです。


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坑道内の壁に十字を掘り祈る潜伏キリシタン




 中世の鉱山は、鉱山独自の掟「山法」に「一山は一国たるべし、他の指揮に及ばず」とあり、主殺し、親殺し以外は刑事訴追を逃れるという、一種の治外法権地域でした。
当時の鉱山には、来るものを拒まない寛容な風土があり、この掟を守っている限り安全に生活できたそうです。

 それで、慶長17年(1612)、徳川幕府がキリスト教の弾圧を始めた頃から、その弾圧の難を逃れるため、多くのキリスト教徒が西国から東北の地に移り住み、鉱山に潜伏したそうです。

 佐渡の金山は有名ですが、その他にも、久保田藩、南部藩などに、院内銀山、尾去沢鉱山、白根金山、佐比内金山など、陸奥(みちのく)一帯にたくさんの鉱山があり、産出量も当時は世界有数のものも幾つかありました。



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鉱山内の金奉行所




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昔は手掘りのみで重労働だった




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砂の中から金を選り分ける女たち




 不思議なことに、みちのく鉱山の多くが 日本最初の禁教令が出された前後に発見されたり、採掘開始されたりしています。まるで厳しい迫害に地元を追われるキリシタンのために、神様が生き残りの場所を用意してくださったかのようだと思いました。

 この陸奥の鉱山群がなかったら、追放され、命からがら逃げてきたキリシタンたちの多くが、山野でのたれ死んだかもしれません。


白根金山: 慶長3年(1598)、鹿角境奉行だった北十左衛門信景によって開発され、その後、五十枚、西道、槙山など尾去沢(おさりざわ)の諸金山が開発された。この金山の開発により、南部藩の財政は大いにうるおい、「田舎なれども 南部の国は 西も東も金の山」と民謡、からめ節などにうたわれた。

 藩政時代を通じて盛岡藩の領内では100以上の金山が開発されたと伝えられているが、なかでも盛んであったのが紫波の佐比内(さひない)金山や鹿角の白根金山であり、尾去沢では計18の金山が開かれた。鹿角では慶長年間(1596-1614)には金掘工が4,000人近くにものぼり、山間にたちまち数千 軒の鉱山街が出現するほど盛んだった。
「みちのく悠々ブログ」より引用




 鉱山の仕事は、やはり超重労働で、30代で生涯を終える人も多かったそうですが、キリシタン達には残虐な拷問に比べれば何でもないことと思えたでしょうし、一生懸命働けば、金銀が採掘され景気が良いので、庶民でも 白いご飯が食べられる、とか、お酒も飲めるとか、他の地域では考えられないほど恵まれた生活だったようです。


 特に秋田(久保田)藩は、キリシタンに対して寛容だったそうです。

 金、銀、銅などの減産と鉱山の衰退を嫌い、人手がいつも必要だったこと、
 そして藩主義宣の側室である西の丸(岩瀬御台)がキリシタンであったこと
 などから、キリシタン禁教政策を厳しく行わなかったと言われています。

 秋田の地で、鉱山の重労働をしながらも、キリシタンたちは、しばしの安堵の時を過ごしたのでした。


秋田キリシタン分布図.jpg
秋田キリシタン分布図




 元和3年(1617)頃から幕府のキリシタン禁教政策に対応して、キリシタン摘発が厳しくなり、寛永元年(1623)には、院内銀山の信徒25名、善知鳥鉱山の信徒13名が斬首、寛永20年(1643)には白根金山で多くの信者が捕らえられ、処刑された、と記録されています。
 それでも、おそらく数万以上と予想される全体数から見ると 少ないように見受けられ、禁教の圧力を強める幕府の顔を立てて キリシタンの処罰をしている形にした程度か、という感じがします。


 江戸幕府の直轄だった佐渡の金山以外では、鉱山での絵踏みの記録も無いようなので、本土の陸奥鉱山のキリシタンたちは、絵踏みの大罪を犯して霊的な死を受けることもなかったかもしれません。記録が少ないので、よくわかりません。

 潜伏キリシタンたちにとって、みちのく鉱山は、桃源郷あるいはオアシスのような場所だったのではないでしょうか?  
 地下の坑道には皆で祈る場所もあったそうです。



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 現代でも、秋田に集う私たちは、生き残りのグループだ、という気がしてなりません。
生き残りのキリシタンたちが、貴重な白いお米やお酒をいただけたように、私たちは霊的食物として尊い白い御聖体のパンを、司祭方は聖主の御血に聖変化したぶどう酒もいただきます。私たちは本当に恵まれているのだと思います。


 みちのく秋田は生き残りの場所、秋田の聖母出現は生き残りの道を示す道標なのだ、と気づけたことは、このダブル巡礼を企画してくださった神父様方、そして殉教の長崎各地を巡り祈ってくださった方々のおかげだろうと思いました。
 そして、長崎ー秋田は、別々の巡礼地ではなく、苦難の時代を生きた日本のキリシタンたちのカトリック信仰を偲ぶ、ひと続きの巡礼地なのだと深く心で理解いたしました。


 秋田の聖母を慕って集う人々には、マリア様は、必ず何らかの形で、生き残りの恵みを与えてくださると、思っています。
「私に寄りすがるものは助けられるでしょう。」と、秋田の聖母様は約束して下さったのですから。

(つづく)

以下のサイト、その他の多くのサイトを参考にさせていただきました。
興味のある方は、「鉱山名(地名)+ キリシタン」の ダブルキーワードでググってみてください。

白根金山
http://www.pacs.co.jp/hist_walk/walk_akita02/kaduno_sirane_kinzan/index.html

佐比内金山
http://simomath.blog.fc2.com/blog-entry-832.html

尾去沢鉱山
http://zamakibeniko.blog14.fc2.com/blog-entry-1082.html



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