2016年01月30日

ひざまずくこと それ自体が 礼拝そのものを 意味している


 教書「イネスティマビレ・ドヌム」
(日本語訳 はかり知れない賜物
http://hvri.gouketu.com/inaestimabiledonum.htm) 

 は、日本では、まるで禁書扱いだった。。。。?
と、前記事で書きましたが、状況を見れば、普通に言って、教皇様からの正式の通達を日本司教団が握り潰して、司祭、修道者、信徒たちに知らせず、規定違反の典礼を平気で続けていたことにならないでしょうか?

 「この教書の翻訳を早く出すように願ったある司祭に、中央協議会は、この教書の実行は日本のために難しすぎるからそれをしない、という返事」って、そんなに難しいでしょうか? キリシタンの時代から、日本の信徒たちは、ずーっと そうしてきたのに?

 教書「イネスティマビレ・ドヌム」が出されたのは、もう20年以上も前のことですが、現在でも、この教書によって指摘され、改善するように指導された規定違反は 当たり前のように、日本の典礼の中で続けられています。
 むしろ、規定違反が長くなればなるほど、「”規準”にすり替わるほどに、精神に定着して」(*引用元)しまっているかのようです。
 (*舌の上に受ける御聖体拝領の弁護 http://hvri.gouketu.com/mariejacque1.htm

 デルコル神父さまが 特に詳しく述べているのが、
女性の侍者は禁止されていることと、御聖体拝領の方法と姿勢とについてです。

 この他にも色々な規定違反が、日本ではそのまま続けられていましたが、さらに、この度「ミサの間のすべての跪きを禁止する」という、おそらく世界でも前例のない暴挙となりました。

「ひざまずくこと それ自体が 礼拝そのものを 意味している」(教書イネスティマビレ・ドヌム)
ので、あたかも天主なる神様への礼拝を禁じてしまったかのようですね。



 デルコル神父様の「重大な教書」より、もう少し引用します。
。。。。。。。。。。。。


3。教書「イネスティマビレ・ドヌム」の規定を忠実に守る責任

この教書の中に、

a)福音の朗読と説教(2−3条)
b)奉献文を司祭だけが(5−6条)
c)祭服(7条)
d)御聖体の材料(8条)
e)カリスと聖体器(15−16条)
f)女性の役割、教会奉仕者(ミサ仕え)は許されていないこと(18条)
g)聖体賛美式(22−23条)
h)聖櫃(24−26条)

に関する規定が述べられています。

 最後に、「自分に委託された教会における典礼全生活の統制者であり、推進者であり、また監督者である」(注)司教たちは、神のみ栄えと教会の利益のために、これらの規定を真面目に、しっかりと実行できる最も適当な道を見出す責任があることも書いてあります。
(注)第二ヴァティカン公会議の「教会における司教の司牧任務に関する教令」15条の言葉。


 この教書の序には、典礼上の濫用と不規律が指摘されて、「行き過ぎた乱用」、「典礼の偽造」と呼ばれています。

 そして、よく忘れられている原則を強調しています。
すなわち、「信徒たるものはまことの典礼にあずかる権利をもっている」という原則です。

 つまり、教会のはっきりした規定に背くような、わがまま勝手な典礼は、本当の典礼ではなく、「典礼の偽造」にすぎないから、「ほとんどの場合、激しい反動を呼び起こすことになる」といわれています。
 日本でも、外国でも、信徒が わがまま勝手な典礼に対して 不満を表す(ことが許される*)理由は、そこにあります。

 教皇が定めた道から逸れると、「良い結果を生じ得ないのは、言うまでもない」と、教書は忠告しています。なぜなら、こうすることによって、「神の民につまずきを感じさせ迷わせてしまう」からです。

 それで、この教書の結論として、教皇が「関係あるすべての人が守るように命じられた」と結ばれています。


「重大な教書」世のひかり社 1990年発行7~9ページより引用
(*)は管理人の補足


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