2014年04月18日

十字架のそばにいる聖母マリア

 
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 安田神父様の御本から、神父様の秋田の聖母像のことに関する想いが よく現されている箇所をいくつかまとめてあげてみたいと思います。

 そして、この記事を持って、「秋田日記」は、ひとまず終了しようと思います。
 至らないところは多々ありましたが、ご容赦下さい。

「聖母マリアを通して日本全土に天主なる神イエズスキリストへの回心の恵みがありますように」これからも皆様と心を合わせて祈り続けたいと思います。

 つたない文章を読んでくださった方々、特にコメントやメール、クリックなどで応援下さった方々、本当にありがとうございました。


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− 引用ココから ー (途中で。。。。とあるのは、その部分の文章が省略されたところです)


十字架のそばに
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 これから述べることは、わたしが聖母像の涙の現象をどのように受け取っているか、ということですが、他人がそれについてどのように見るかは全く自由です。

 その第一のしるしと言えるものは、十字架のそばに立っている姿の聖母像ですが、これは十字架と組み合わせたもので、そこに一般的なこれまでのマリア像と異なる点があります。

 このことが また ある人びとの誤解を招くことにもなっているようです。それというのは、聖母がキリストに代わって十字架の前に立って贖罪のキリストを覆い隠していることは、信仰上認めることができないという意見です。

 しかしわたしの見るところでは、マリアが十字架の前に立っていることは、十字架のそばにいるというそのこと自体、贖罪のキリストと一つになって結び合わせられていることの意味を強調するためだと思います。

 それはキリストを排斥する意味のものではなく、十字架はキリストのものであったと同じように、母なるマリアのものでもあったことをあらわしているのです。

 それこそ、わたしたちがもっと早くから知り、そのことに気づき、信心の目を注ぐべきであったことの指示のようです。ヨハネ聖福音書十九章二十四節を読めば、誰でもよくわかるように、聖母は神の子によって、しかも臨終の十字架上から、すべてのキリスト者の母とさせられたのです。そればかりでなく、全人類の母とさえ立てられているのです。

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わたしたちの母とは

 わたしたちは、神が万人のものであり、キリストも万民の救い主であり、恩恵の仲介者に立てられた聖母も、すべての民族の母であると知っています。
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 カトリック教会文書資料集をひもといてみますと、そのNo.3275として1891年9月22日に、レオ13世が ロザリオについて発布された回勅の中に 次のようなものがあります。

「神はマリアを自分の母と選んで、われわれに与え、母としての感情を十分に与え、愛と赦し以外の何ものも望まなかった。イエズスキリストはマリアに従い、母に従順な子であろうと望んだ。イエズスキリストは十字架から、ヨハネによって代表された全人類を世話するようにマリアにゆだねた(ヨハネ19。26以下)。彼女はさらに息を引き取ろうとしている子によって残された偉大なわざの遺産を胸に抱き、すべてのことに対する母としての任務を直ちに果たし始めたのである」

 これらのことを深く考察してみますに、(秋田の)聖母像の涙は、十字架にかかったキリストの遺言の再強調のしるしである、と言えそうです。
 聖書によればそれは次のようです。「イエズスは母とそのそばに立っている愛する弟子を見て、母に、婦人よ、この人はあなたの子です、と仰せになった。それから弟子には、この婦人はあなたの母です、と仰せになった。その時から、この弟子はイエズスの母を自分の家に引き取った」(ヨハネ19.26〜27)

 キリストが自分の母に対して、婦人よ、と呼びかけたのは、明らかに神の権威の立場を重んじたためでありましょう。イエズスは幾度となく弟子たちに、わたしの言葉はわたしのものではなく、父の言葉であると述べています。

 また使徒ヨハネが、その婦人をその時から自分の母として家に引き取ったことを証明しているのは、すべて神の国に新しく生まれる者が、霊的に聖母を 自分の生みの母親として受け取るべきことの模範を示しているようです。ヨハネの言う家とは、自分の霊魂、神の国のことであり、わたしたちの信仰に基づく恩恵の世界であります。

 聖書によれば、聖母はこれらの言葉を、御子の十字架のかたわらで、キリストに身を寄せ、涙の中に聞いていたのです。
 聖書には聖母が涙を流しておられたことを、特別に書いてはありませんが、しかし誰よりもデリケートな人間的感情の持ち主であった聖母が、母親として涙なしに十字架の前に立っていたとする考え方こそ、最も不自然なことではないでしょうか。
 聖母はその生涯の中で、たびたび涙を流されたでしょうが、最も激しく泣かれたのはその時であり、顔を埋め、涙にむせんでおられるその時、十字架から呼びかけるキリストの厳粛な声を聞いたのです。

 それを今日のわたしたちに思い出させるためのしるしとして(秋田の)聖母像の涙を仰ぎ、受けとめるとき、わたしには「これがお前の母である」との福音の言葉が生き生きと胸に迫ってくるのです。もうそれ以上何も言うことなし、と。

 (秋田の)湯沢台の聖母像の涙を、わたしはこのような意味で受けとめているのです。また、このように聖母像の涙を、ヨハネ福音のイエズスの遺言のこだまと受けとめるとき、それはわたし個人のためばかりでなく、広くすべての人のためでもあると思えてならないのであります。


(「奇跡と涙 − 続秋田の聖母マリア −」 緑地社発行 150〜151、161〜164ページより引用)


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