2018年05月05日

秋田の聖母マリア、巡礼2018

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五月、聖母マリア様の月になりましたね。


今年も5月3日から、毎年恒例のSSPXの秋田巡礼が行われています。

過去10年以上、毎年参加してきましたが、残念ながら本年は参加を見合わせました。
でも、巡礼に参加なさっている皆さんと心を合わせて、お祈りしております。

「秋田日記」というブログ名ながら、最近は秋田の聖母マリアに関する記事が少なくなっていますね。
この巡礼期間中に、秋田の聖母マリア御出現に関して黙想を深めるよう努めています。


 秋田の聖母マリア御出現の意義は、一般に思われているよりも、ずっと深く大きな意義があると思います。

 最も重要でありながら、あまり注意を払われていない天使の最後のメッセージを読み返してみます。

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(引用ココから)


1981年9月15日

この日も、午後二時ごろ、聖母像から涙が流れた。秋田教会の信者たちのグループのほかに各地から来訪者があり、本部姉妹を合わせて計六十五名が目撃した。涙の量はとくに多くも少なくもないので、現象としてこれまで以上に記憶に残るものではなかった。ちょうどこの日は、聖母の悲しみの記念日であったから、一同はその符合に感銘を受けていたようであった。私自身も、これが最後の“お涙”であるとは、つゆ知らずにいたのである。最初から数えて、百一回目であった。格別切りがよいと思える数字でもなかった。


 ところが、この日から数えて十三日目の九月二十八日、聖体礼拝の時、姉妹笹川は突然天使の訪れを、霊的に感じた。その姿は現れなかったが、目の前に聖書が開かれ、ある個所を読むように指示を受けた。いかにも神秘的な光を帯びた、大きな美しい聖書であった。そこに“3章15節”という数字をみとめた時、天使のお声があり、聖母像の涙はこの個所に関係がある、と前置きして、次のように説明された。

 「お涙の流されたこの101回という数字には、意味があります。
一人の女によって罪がこの世に来たように、一人の女によって救いの恵みがこの世に来たことを、かたどるものです。
数字の1と1の間には0があり、その0は、永遠から永遠にわたって存在する神の存在を意味しています。
はじめの1はエワを表し、終わりの1は聖母を表すものです」


 そして、創世記の三章十五節を読むように、再度の指示があって、天使は去られた。同時に聖書のイメージも消え失せていた。


 聖体礼拝が終わると、姉妹笹川は私の部屋にとんで来て、天使からの指図を告げ、創世記三章十五節を読んでほしい、と言った。自分自身ですぐ聖書を開いてみるよりも、まず私に たしかめてもらいに来たのであった。

 わたしがとりあえずバルバロ師の口語訳を開いてみると、次の句が見あたった。
 「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意をおく。
 女のすえは、おまえの頭を踏みくだき、おまえのすえは、女のすえのかかとをねらうであろう」
 そこで姉妹笹川は天使から聞いた百一回の涙の説明を、そのまま私にくり返したのである。


 私はその時はさほど驚くこともなかった。が、日がたつにつれ、涙が以後流れなくなった現実と、その意義が聖書をもって説明されたという事実に、次第に深い感銘をおぼえるようになった。

 創世記の三章十五節は、偉大なる神、絶対的存在者が、サタンに対して予言的宣告をなし、聖母マリアとの対決を言い表したものである。
 “女のすえ”とは、聖母マリアを通じて世に生まれ出るイエズスとキリスト信者たちを意味することは明白である。キリストの神秘体は、キリストを頭として世に生まれ継いでくる信者全体を指すものである。
 聖母は、キリストの神秘体である教会と一致して、サタンと悪の子孫に対して世の終わりまで戦う使命を、御父なる神から受けているのである。

 創世記のこの個所は、プロトエヴァンジェリウム(原福音)と呼ばれ、救世主についての神の最初のお約束とされる。また、サタンの対抗者たるべく、いささかの罪との関わりもない、聖母マリアの無原罪をも啓示する最初の聖句でもある。


 ルルドの聖母出現は、教皇ピオ九世による“聖マリアの無原罪のおん孕り”の宣言を記念するものといわれる。童貞マリアは原罪の汚れなく、聖霊によって救い主の母となった、との信仰箇條が一八五四年十二月八日に公に認められたその四年後、ルルドにおいて聖母は十六回目の御出現のとき「わたしは汚れなき孕りです」と、みずから確認するごとく、ベルナデッタに告げられたのであった。

 ファチマの御出現は、聖母の被昇天を記念するものといわれる。教皇ピオ十二世は一九五〇年の聖年の十一月一日に“聖母被昇天の教義”を宣告された。ピオ十二世はファチマの“太陽の奇跡”を個人的にバチカンの庭で見る恩恵を受けたことを、側近に洩らされたことから、その聖母崇敬と“被昇天”宣言もそのことに関連があるように取り沙汰されている。

 秋田の聖母像の涙の奇跡は、天使の口から、聖書の権威に拠って説明された。創世記の聖句は、世の終わりに至るまでの聖母とサタンの戦いを啓示する。これは聖母ひとりの戦いではなく、全キリスト信者とともに、キリストの神秘体と一致しての対決である。とすれば、“涙の聖母”が“メッセージ”の中で、罪の償いと改心を呼びかけられるのも当然なこととうなずけるのである。

 ルルドでは、聖母の無原罪のお孕りが記念された。
 ファチマでは聖母の被昇天が記念された。
 前者は聖母の御生涯のはじまり、後者はその終わりを輝かしく示すものである。

 秋田において聖母は、両者の中間をみたす御生涯を通じての使命に、わらわれの注意を惹き、心からの協力をうながされるごとくである。


(安田貞治神父著、<秋田の聖母マリア>より引用)

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 普通の本でも、「序文」や「あとがき」は大事ですが、「本文」がさらに大事なのは言うまでもないことでしょう。
 なので、秋田の聖母出現は、ルルドやファチマにも勝る意味があるのではないでしょうか?
(「どこそこの御出現が一番だ」などと、比べる必要はないので、そういう意味ではないのですが。。。)



 安田神父様は、「共贖者マリア」ということが本当に大事だ、と度々言っておられました。
 それが、秋田の御出現が示す大いなる意義なのです、
 マリア様はイエズス様と共に、人類の救いのための犠牲(いけにえ)となって下さったのです。

 天主なる神様に捧げる犠牲であれば、しみも傷もない完全に美しい良いものでなければなりません。
 「汚れなきもの」であることは、絶対必要な前提条件なので、「無原罪のマリア」(Immaculata)の教義は、「共贖者なるマリア」(Co-Redemptrix)より先に、宣言されたことは摂理に適ったことであったと思います。
 マリアは無原罪、かつ無自罪であり、全く罪の汚れのない者でありました。

 それに加えて、「天主の御母」であられたこと、つまり、イエズス・キリストとすべての喜び苦しみを共にされた御生涯によって、キリストによる人類の贖いに協力するにふさわしい者となられたのだと思います。

 たとえとして思い浮かぶことは、「秀吉が母を差し出して、さすがの家康も上洛した」という話です。人としてはただの百姓女です、が、秀吉の生母である、ということに人質としての価値があったのです。

 聖母マリアも、無に過ぎない被造物でありましたが、その御生涯の完全な奉献によって、三位一体の神にとって、最も美しく愛すべきかけがえのないお方になられたということ、に、人類の救いに協力する共贖者としての価値があるのではないかと思います。
 イエズスの母、ばかりではなく、「天主の御母」であるということは、真に偉大なことで、いつかきっと神学的に深い説明がされるであろうと、伺ったことがあります。
 マリアは「天主の御母」の称号にふさわしい方なのです。

そして聖母マリアは、私たちの御母でもあります。この全く美しい良き母のおかげで、私たちの小さな犠牲も天主なる神様に嘉されるものとなることができるのだと思います。
 


「一人の女によって罪がこの世に来たように、一人の女によって救いの恵みがこの世に来た」


天主の御母 聖マリア、罪人なる我らのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。
感謝と祈りのうちに。


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posted by テレジア at 17:13| Comment(4) | 黙想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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